むしろ生物学における目的論を批判すべき
戸田山和久著『哲学入門』(ちくま新書、2014年)分析の続きです。
これまでの内容は以下のマガジンで見ることができます。
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NHKの「地球ドラマチック」「科学で解明!動物たちの遊び」は面白い内容ではあったが、「絆を深めるため」に「遊びをする」という学者の説明には違和感を覚えた。遊びたいから遊ぶのであって、「絆を深めるために遊ぼう」などと思うだろうか? 絆が深まるのは結果であって目的ではない。
もちろん言語を用いる人間ならば「あの子と仲良くなりたいから遊びに誘おう」と明確に意識・言語化した上で遊びに誘うこともあろう。しかしよくよく考えてみれば「遊びたい」からなのか「仲良くなりたい」からなのか、どちらが究極的な目的なのか、と考えること自体がばからしい。どうとでも言えるからである。(では「絆が深い」「仲が良い」とは具体的にどういった事象を指すのか、と考えれば「よく遊ぶ」という事象が含まれる場合もありうるだろうから、話はさらにばからしくなる)
「目的」というものは実体的な存在物ではなく、あくまでその時その時において言葉を使う人間が勝手に解釈するものなのである。物理的世界とのかかわりあいで言えば、その時その時において、(解釈を行う)人間の思考に応じて脳が働いている、血流が流れている、ただそれだけのことである。別に脳科学と齟齬をきたすこともない。
ただ、ここで混同してはならないことなのだが、人が具体的に「あの子と仲良くなりたい」と思った(言語化したり、そういった場面を想像したり、それらに対して情動的感覚を感じたりなど)のであれば、それは確かに”一つの事実”として起こった具体的事象であり、この事実は因果関係的分析の要素になりうるし、実際それ以降の行動に影響を及ぼしうる。
いずれにせよ科学において事実関係として表せるのは、具体的事実どうしの「因果関係」であり、目的論的説明ではないのである。戸田山氏は生物学にのっかるのではなく、生物学における目的論的説明に対し批判を加えるべきなのだ。
・・・これで良いのだ。確かに現実として現れているのは単なる因果関係だけである(「因果そのもの」という具体的事物はないのだが)。
では人間が「機能」と呼ぶものはいったい何だ、という話になるが・・・単純に考えればよいのである。「雌のクジャクが雄のクジャクに惹きつけられる」という事象を取り上げ、それに影響を及ぼす事象、つまり因果関係を有する事象を列挙するのである。すると「雄のクジャクの美しい羽根」が「雌のクジャクが雄のクジャクに惹きつけられる」事象に影響を及ぼしている、ということになる。
という戸田山氏の見解は事実と合致していると思える。目的論といえども具体的因果関係に基づいていることは明らかであり、目的論や機能の問題を、因果関係と別論理と考えることは明らかな誤謬であると言える。つまり「機能」においても、
という見解は事実に反する。「自然界」で現れている事実は、ただ「機能がある」とある人が(あるいは多くの人が)思った、ということである。「機能そのもの」が「存在もどき」として現れたわけではないのである。
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