原因・原理を知るためには経験家でなければならない

アリストテレス『形而上学(上)』(出隆訳、岩波書店、1959年)の分析はゆっくりやっていきます。最初からつっこみどころが多すぎて分析に時間がかかりそう・・・

以下、引用部分はすべて『形而上学(上)』からのものです。


1.私たちは知りたいときもあれば知りたくないときもあるし、知ろうともしない事も多い

『形而上学』は次の文章から始まる。

すべての人間は、生まれつき、知ることを欲する。その証拠としては感覚器官〔感覚〕への愛好があげられる。というのは、その効用をぬきにしても、すでに感覚することそれ自らのゆえに愛好されるものだからである。

(アリストテレス、21ページ)

・・・最初から違和感の残る説明である。“感覚器官の愛好”とは何であろうか? “感覚することそれ自らのゆえに愛好される“とはいったいどういうことであろうか? 翻訳文の問題であろうか? おかしな文章である。感覚には心地良いものもあれば不快や苦痛もある。それらが”証拠“とはいったいどういうことなのだろうか?
 私たちは知ることを欲するときもあれば知りたくないこともある。興味がなく知ろうともしないこともたくさんある。正しい時も正しくない時もあるような、どうとでも受け取れる、学問的哲学としてはあまり意義のない命題(?)と言えるであろう。
 続いて動物の記憶や感覚などに関する説明と続くが、これも単なる偏見・憶測の域を出ず、現代の科学研究の成果から考えれば取るに足らない見解である。

2.経験と技術(理論・知恵)、因果関係に関するアリストテレスの誤解

 アリストテレスは次のように言う。

経験が人間に生じるのは記憶からである。というのは、同じ事柄についての多くの記憶がやがて一つの経験たるの力をもたらすからである。

(アリストテレス、22ページ)

・・・しかし本当にそう実証されているのだろうか?
 アリストテレスは次のようにも説明している。

学問や技術は経験を介して人間にもたらされるのである。けだし「経験は技術を作ったが、無経験は遇運を」とボロスの言っている通りである。さて、技術の生じるのは、経験の与える多くの心像から幾つかの同様の事柄について一つの普遍的な判断が作られたときにである。

(アリストテレス、22ページ)

・・・「経験の与える心像」とあることから、私たちの日常生活の具体的経験に沿って考えれば、経験が記憶されそれが心像となって現れる、といったふうであろうか。つまり記憶が経験によってもたらされるのではなく、経験が記憶され積み重ねられることで”普遍的な判断”がもたらされるのである。
 このあたりアリストテレスの”経験観”は非常に雑であり、いったい何をもって”経験”とするのかあいまいなのである。(より厳密に言えば心像そのものも一つの経験として現れるし、”普遍的判断”も一つの経験として現れるのであるが、混乱するのでこの話はここまでにしておく)
 下の説明によって、アリストテレスの”経験観”がさらにぶれていることが明らかとなる。

というのは、カリアスがこれこれの病気にかかった場合にはしかじかの処方がきいたし、ソクラテスの場合にもその他多くの個々の場合にもそれぞれその通りであった、というような判断をすることは、経験のすることである。しかるに、同じ一つの型の体質を有する人々がこれこれの病気にかかった場合には――たとえば粘液質のまたは胆汁質の人々が熱病にかかった場合には――そうしたことは、技術のすることである。

(アリストテレス、22ページ)

・・・この説明にも疑問が残る。おそらくアリストテレスは”個別事例と(抽象化・一般化された)原理的理解”の区別をしたいのだろうが・・・実際のところ、

(1)アリストテレスの言う「経験」:特定の病気→特定の処方が効いた
(2)アリストテレスの言う「技術」:粘液質のまたは胆汁質の人々が熱病にかかった(同じような体質を有する人が特定の病気にかかった)→特定の処方が効いた

・・・というふうにどちらも特定の因果関係のことなのである。(1)は決して個別事例ではなく、あくまで個別事例から抽出され一般化された因果関係、(2)も同じく一般化された因果関係、どちらも同じである。(1)は特定の病状に特定の処方が効いたという個別的具体的経験の繰り返し、(2)も特定の性質を持つ人々が特定の病状を呈した場合にある特定の処方が効いたという具体的経験の繰り返しであることに変わりはない。(1)も(2)も特定の個別的・具体的経験が繰り返される(もちろんそれらが“記憶”されることが必要であるが)ことでもたらされる因果的理解なのだ。
 (1)と(2)の違いは(もしそれが正しければの話ではあるのだが)因果関係の精緻さ・関連する要素の数とでも言えようか。つまり、

実際に行為するのには、経験は技術にくらべてなんらの遜色もないようにみえる。のみならずむしろ経験家の方が、経験を有しないで概念的に原則だけを心得ている者よりも、遥かにうまく当(あ)てる。――その理由は、経験は個々の事柄についての知識であり、技術〔理論〕は普遍についてのであるが行為〔実践〕や生成〔生産〕はすべてまさに個々特殊の事柄に関することだからである。

(アリストテレス、22ページ)

・・・という説明は不正確である。上記(1)も(2)もその精緻さ(あるいは関連する要素の数)にかかわらず個別的経験の積み重ねによりもたらされた”普遍的(一般的)”因果理解であることに変わりはないのである。(1)が”経験的”で(2)が”概念的”であるという理解は完全なる誤りだと言えよう。
 ひょっとして(2)に関してアリストテレスは経験ではなく”推論”に基づく原理理解といったイメージを持っていたのかもしれない。もしそうであるならば(2)は単なる”仮説”・”想像”の域を出るものではないことになる。「経験家の方が、経験を有しないで概念的に原則だけを心得ている者よりも、遥かにうまく当てる」という表現からそういった理解もできるであろう。
 しかしそれならばアリストテレスの言う「知恵」とは単なる(良く言えば)「仮説」(悪く言えば)「空想」「想像」と同義になってしまう(実際、古代ギリシアの哲学は想像・空想の域を出ないものでしかないが)。

経験家の方は、物事のそうあるということ〔事実〕を知っておりはするが、それのなにゆえにそうあるかについては知っていない。しかるに他の方は、このなにゆえにを、すなわちその原因を、認知している。

(アリストテレス、23ページ)

・・・繰り返しになるが、アリストテレスの言う経験家も”特定の病気→特定の処方→病気の治療”といった一連の因果関係(原因・結果の関係)を知っているものである。そして上記「他の方」つまり理論家も、”同じような体質を有する人が特定の病気にかかった→特定の処方→病気の治療“といった一連の因果関係(原因・結果の関係)を知っているものであることについては同様なのである。
 そして”理論家”の場合においても、その理論(アリストテレスの言う「技術」)が具体的経験に裏打ちされていなければただの空論とならざるをえないのである。
 つまりアリストテレスは「原因」「原理」というものに関して根本的な誤解をしているのだと言える。

知恵が或るなんらかの原因や原理を対象とする学〔認識〕であるということは、明らかである。

(アリストテレス、25ページ)

・・・知恵(原因・原理)を獲得するために経験は必須なのであり、原因・原理を知るためには経験家でなければならないのである。あるいは、少なくとも経験家の助けを得て事実として実際に何が起こっているのか知る必要があるのだ。


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