「ことがらそのもの」を探求するといって実質的に何をしているのか

戸田山和久著『哲学入門』(ちくま新書、2014年)分析の続きです。
これまでの内容は以下のマガジンで見ることができます。

科学哲学批判|カピ哲!|note

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 戸田山氏やミリカン、カミンズらは何をしているのだろうか? 戸田山氏は「ミリカンの定義」「カミンズの定義」(戸田山、134ページ他)などについての議論をしているのだが・・・ 結局のところ、”どういう具体的事象をもって「機能」「本来の機能」と呼んでいるのか”について議論し合っているのである。例えば缶切りについて、「缶切りとして設計された経緯がある」(戸田山、136ページ)とかいうふうに、それぞれの研究者たちが具体的事例に基づいて考察しているのである。

機能カテゴリーとか、正常異常の区別という意味での規範性とか、目的とか、意味とかいった、自然界にありそでなさそでやっぱりあるものを、モノだけ世界観にできるかぎり統一的に描き込もうという、別の理論的目標

(戸田山、138ページ)

・・・とは言っているものの、要するに「機能カテゴリー」やら「意味」やら「目的」というものが具体的事象としてどのように現れているのか、あるいはどのような具体的事象に対し「機能」「意味」「目的」という言語表現をもちいるべきなのか(つまり定義)、そういった議論に収斂していくのである。
 結局、”言葉と具体的事象”との関係の問題に収斂していくのである。”描き込む”のではなく、どの事象をもってその用語の定義にしようかと議論しているのである。

どっちがわれわれの日常的機能概念に近い正解か、と争っても意味ないでしょ、だって、二人ともそもそも概念分析をやろうとしているわけじゃないんだから。

(戸田山、138ページ)

・・・とは言うものの、結局は具体的に現れている事象に対する言葉の「定義」の問題に行きつくのである。そこに科学が絡もうが絡むまいが、その言葉の定義について違和感を抱いたり共感したりするのは人間としての研究者であるし、その科学者の見識を知った上で共感したりしなかったりする研究者以外の人たちなのである。
 分析哲学と違うところは言葉と具体的事象との関係に”無自覚”か”自覚的”かどうかなのかもしれない。あるいは形式的論理をアプリオリとし具体的事象と言葉との関連を軽視することが分析哲学の問題点であろうか。


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