「私」「他者」の存在は具体的経験として現れるが、「純粋自我」「(形而上学的)主体」は現れない
竹田現象学における「本質観取(本質直観)」とは実質的に何のことなのか
http://miya.aki.gs/miya/miya_report37.pdf
(※純粋経験論:レポート一覧のページからもダウンロードできます)
・・・の6章の最後に<※注>を加えました。純粋自我のようなものは否定しておいて最後に私や他者を前提とする認識の客観性について論じているので、混乱する読者がひょっとしているかも・・・と思い(読んでくれる人がいますように・・・)、最後に注釈を入れておきました。ついでにウィトゲンシュタインの見解に対する同意・批判も付け加えました。
以下<※注>の本文です。
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純粋自我、あるいはウィトゲンシュタインの言う「(形而上学的な)主体」は具体的経験として現れることはなく対象化もできない。一方で実際に存在する「私」という人間、さらには「他者」「他の人たち」は具体的経験として現れている。純粋自我を見つけることはできないが、他者を見つけることはできるのである。
私自身の全体像を見ることはできない。しかし視覚だけでなく触感によってその存在を確かめることができるし、鏡や映像、写真、絵などで自分自身を見ることもできる(鏡はものを映すという因果的知識が間に入り込んではいるが)。
その「私」が目や鼻や耳や脳やら臓器やらを内蔵し、視覚・嗅覚・聴覚その他の感覚を抱いているという事実は、因果的理解であるにせよ科学的にも検証され客観性・普遍性を持つ認識である。
このように「私」「他者」という存在は具体的経験として対象化できるものであるが、純粋自我(あるいは形而上学的主体)というものは実際には存在せず対象化もできない、この違いは重要である。
ウィトゲンシュタインは「思考し表象する主体は存在しない」「世界の中のどこに形而上学的な主体が認められうるのか」(ウィトゲンシュタイン、116ページ)というふうに「(形而上学的)主体」の存在を否定している。実際そういったものは具体的経験として現れることはないし、その見解には私も同意する。
しかしウィトゲンシュタインは「君は現実に眼を見ることはない」「視野におけるいかなるものからも、それが眼によって見られていることは推論されない」(ウィトゲンシュタイン、116ページ)とし、それゆえに「われわれの経験のいかなる部分もア・プリオリではない」「われわれが見るものはすべて、また別のようでもありえた」(ウィトゲンシュタイン、117ページ)と結論づけているのであるが、これは論理の飛躍としか言いようがない。
形而上学的主体はないが経験は現れている。自分で自分の眼を(鏡や写真、映像などの助けなしに)見ることはできないが、それでも見えているものは見えているのである。ウィトゲンシュタインは独我論という憶見から逃れられていないのではなかろうか。まずすべてに先立つのは経験なのであって、ア・プリオリも何もない。
形而上学的主体がなくても、自分で自分の眼を見ることができなくても、経験した事実は不可犠牲を有するものであって(疑えるはずもない)、ただ現れるもの、与えられる(所与の)もの、「別のようでもありえた」などと考えることすら無効なのである。
<引用文献>
ウィトゲンシュタイン著『論理哲学論考』野矢茂樹訳、2003年、岩波書店
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