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内的・外的の問題ではなく、論理を含む言語表現の有意味性の問題

 野矢茂樹著『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』分析の続きです。前回の記事で、分析哲学(そしておそらく哲学全般、さらには科学)が陥っている根本的錯誤についての説明、と書いていましたが、この問題に関してはとりあえず前回で終わりにして(少し肉付けしてPDFのレポートに仕上げようと思います)、今回は次に進もうと思います。
 『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』第1~3章の分析に関して、これからの予定は、

・正確な情報伝達の問題と対象を「捉える」こととの混同
・論理形式を知らなくても対象を名で呼ぶ・名づけることはできる

といった内容になる予定です。野矢氏の言われる「循環の構造」は論理を論理で説明しようとするから生じるものです。
 論理(を含む言語)の有意味性とはどういうことなのか、有意味な論理空間とはいったいどういうものなのか、言葉と事実・事態・対象との関係を正確に把握することで野矢氏・ウィトゲンシュタインの見解を批判的に分析しながら明らかにしていきます。
 そもそも論理はアプリオリではないし、アプリオリというものなどどこにもありません。論理が「語りえない」(野矢、26ページ)のではなく、言葉と経験(ここでは事態・事実)との繋がりを突き詰めるとそれ以上論理(あるいは言葉)で説明できないところへ行きつく、むしろ論理はそこから導き出されるものなのです。
 そのあたりのことをじっくり説明していこうと思います。

これまでの記事は、以下のマガジン

ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む(野矢茂樹著)|カピ哲!|note

をご覧ください。なお、本文中の引用はすべて野矢茂樹著『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』筑摩書房、2006年からのものです。

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 野矢氏によると性質には外的と内的というものがあるそうだ。

 たとえば、あなたという一人の人物に関して言うならば、あなたにはいろいろな性質や関係(性別、身長、親子関係、等々)があるが、そうした性質や関係の中で、それが変化したとしてもあなたがなお同一人物であり続ける場合、その性質や関係はあなたという対象にとって「外的」であると言われる。それに対して、その性質や関係が失われたならば、もはやあなたはいままでと同一人物のあなたとはみなされなくなる場合、その性質や関係は「内的」であるということになる。

(野矢、50ページ)

 ここで野矢氏の具体的分析を見てみよう。

一個の熟したトマトを指差して、「これは赤い」と言ったとする。そのとき、その対象が赤い色をもっているということはその対象にとって内的ではない。そのことは、「もしこれが赤くなかったならば」と反事実的な想像が可能だという点に示されている。その対象が赤くないという反事実的な事態を想像し、なおその想像においてその対象はその対象であり続けているということは、赤いという性質はその対象にとって外的ということである。

(野矢、50ページ)

・・・そこにあるトマトが「赤い」という言語判断は、その熟したトマトが事実としてそこに存在しているからこそ(ここでは)外的性質として認められる。「そのトマトが赤くなかったら」と想像する・・・たとえば緑色のトマトの実を想像する、といったところであろうか。しかし想像された緑のトマトはそのトマトそのものではない別のトマトである。目の前にあるトマトは赤くなければ別物である。ある意味「内的」と言えないだろうか? 外的・内的というのも相対的な部分があるのではなかろうか。もちろんそのトマトが未熟で緑色をしていた時の状態を想像することもできよう。それが実際の過去の姿を再現できているかの保証はないのだが。

ある対象がその性質をもっていないと想像すると、その対象の同一性が損なわれ、それゆえその性質をもってないと想像することができないようなとき、その性質はその対象にとって「内的」とされる。たとえば物体は時間空間的位置をもつ。物体がある特定の時間空間的位置を占めていることは偶然的なことであり、外的であるが、そもそもなんらかの時間空間的位置をもつだろうことは物体にとって内的である。

(野矢、51ページ)

この説明を踏まえた上で以下の文章について考えてみても・・・

たとえばこのトマトがいまこのテーブルの上にあることは、このトマトにとってたまたまの外的性質であり、それゆえ「もしこのトマトが靴箱の中にあったなら」といった反事実的な想像をしても、その異なる時間空間的位置を通じてそれは同じトマトでありうる。しかし、そのトマトがそもそもなんらかの時間空間的位置をもつことについては、もはやそれに反した想像が不可能なこととなる。

(野矢、51ページ)

・・・今テーブルにあるトマトが、これから食べられてなくなるまで靴箱に置かれることは決してないと断定できるような場合、靴箱にトマトがあってもそれはこのトマトではありえない。靴箱にそのトマトがある情景を想像はできる。しかし実際にはそのようなトマトはないのである。この場合同じトマトであると言えるのか? ・・・というふうに考えることもできるのではなかろうか。
 知り合いの次郎さんの顔には大きなほくろがある。そのほくろがなくなった次郎さんの顔を想像することはできるだろうし、次郎さんの写真を加工してほくろを取り除くこともできる。しかし、もし次郎さん本人がそのほくろは私のトレードマークだ、これを取り除くようなことは絶対しない、と断言していたとすれば・・・物事に絶対はないのかもしれないが、とりあえず今のところはほくろのない次郎さんはありえない、ということになる。

人物の場合、何が「外的」性質ないし関係で、何が「内的」なのかは難しい問題であり、それ自体ひとつの哲学問題の領域を作っている

(野矢、50ページ)

見方によって「外的」「内的」の分類が揺らぎうるのである。
 しかし「外的」「内的」の区分を議論していったい何になるのだろうか? 問題はそれではなく、(論理を含む)言語表現の有意味性がいかに担保されるのか、そこではないのか? より具体的には言語表現に対応する事態(=像)が描ける・想像できるか、ということに問題は収斂されていく。
 赤いトマトがそこにあって、赤くないトマトという“反事実的な事態を想像”(野矢、50ページ)することはできる。何らかの事態(=像)として現れうるということである。現実ではなくても靴箱に入っているトマトを想像することはできる。太っている猫のミケがいて、やせたミケの姿を想像することはできる(しかしそれが本当にミケの姿であると言えるのか、確証はない)。命題が示す事態・事実があり、現実あるいは想定されたシチュエーションにおける真偽判断を下すことができるものである。前述した「論理空間」の範囲内と言うこともできる。
 一方、時間空間的位置をもたないトマトを想像することはできない(野矢、51ページ)。神経質なトマトや高音部が美しいトマトを想像することはできない(野矢、52ページ)。これらはナンセンス表現、無意味な言語表現であると言えよう。
 つまり言語が指し示す像つまり事態を描けるか、想像できるかという問題なのだ。ここが論理を含む言語表現の有意味性の境界線なのである。内的性質が論理形式なのではない。像・事態(さらには事実)として現れうるということが様々な論理形式の有意味性を担保しているということである。それゆえに、

二・〇一二三一改 対象を捉えるために、たしかに私はその対象の性質を捉える必要はない。しかし、その対象のもつ論理形式のすべてを捉えなければならない。

(野矢、53ページ)

・・・という表現は適当ではないことが分かる。有意味な論理形式であるためにはその論理形式に対応する像(=事態)あるいは事実が実際に現れる必要がある、そうでなければその論理形式は無意味・ナンセンスとなってしまう、ということなのである。

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