『存在と時間』ー(存在論という虚構)=(ハイデガーという一人のおじさんの人生訓)?

 ハイデガー『存在と時間(上)』(桑木務訳、岩波書店、1960年)の批判的分析、まだ序盤にすぎないのだが・・・今のところの予想では、

 ハイデガーの”存在論的”分析は、実質的に”存在的”なレベルにおいての存在分析であり、本来性やら気遣いやら時間論やらも、存在的なレベルにおけるハイデガー自身の印象にもとづく分析に収斂していくのだろう。結局のところ、

『存在と時間』ー(存在論という虚構)=(ハイデガーという一人のおじさんの人生訓)

みたいな形になるのではなかろうか。賛同できる人もいればいない人もいる、反例を挙げればいくらでも挙げられるような人生訓である。”学問的”哲学において寄与するものはなく、むしろ阻害しているだけのように思える。

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エゴやらコギトやら現存在やらという見方の根拠、さらにさかのぼって、「自我があるから考えることができる」「自我があるから見ることができる、経験することができる」という考え方は、私たちが日常的に構築している

(判断・理解する「私」)←見える←(物体)

という一般的・客観的な見方(ハイデガーで言う存在的な次元におけるもの)の焼き直しにすぎないのである。つまり存在的な次元における世界観を存在論的世界観という”虚構”に(新たな用語を創り出すことで)移し替え(るように見せかけ)、そこから存在的な次元について説明しようとする循環論理・論証と言えなくもなかろう。

フッサールやハイデガーの理論において、様々な専門用語が創り出されるのは、この”ロンダリング”を覆い隠すためなのである。フッサールやハイデガーの理論は”難解”なのではない。ロンダリングを見抜けないから現実・事実と齟齬をきたし理解困難になってしまうだけなのだ。

フッサールが意識と呼んだり超越論的主観性と呼んだりしたところで、その構図は基本的に変わっていないのだ。




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