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「pかつq」もf(x)=x+1も特定の事実・事態(定義域)の前提を必要とする関数と言える

野矢茂樹著『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』分析、8章「論理はア・プリオリである」の分析です。

過去の記事は以下のマガジンでどうぞ。

ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む(野矢茂樹著)|カピ哲!|note

引用部分は説明がないものに関しては、すべて野矢茂樹著『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』(筑摩書房、2006年)からのものです。

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 野矢氏はf(x)=x+1という関数について、

一見してこの関数を用いて「以下同様」という地点に立てるように思われる。つまり、こうである。最初の入力を0とする。そのとき出力は1である。次にそれを入力する。そうすると新たな出力2が得られる。次にそれを入力する。そうすると新たな出力3が得られる。以下同様。かくして、0から出発して関数x+1を用いて自然数が得られる。しかし、ウィトゲンシュタインの観点からすればこれはまったくの誤解である。関数は定義域とコミになってのみ意味を確定する。それゆえもし定義域が最初{0}であるならば、それを関数x+1に入力して得られた1はもうその関数に入力できない。出力1が再び関数x+1に入力されるためには最初から定義域に1が含まれていなければならない。1を入力して得られた出力2に関しても同様である。その2をさらに関数x+1に入力させるためには、最初から定義域に2が入っていなければならない。それゆえ、関数x+1で自然数を出したいのであれば、最初から定義域が自然数でなければならない。関数x+1には自然数を構成する力はないのである。

(野矢、175~176ページ)

・・・というふうに説明されている。要するに、f(x)=x+1の入力・出力が「正しく」行われる条件として自然数が既に”前提”されているということなのだ。「自然数を構成する力はない」のは当然である。自然数を前提とした上で関数の「正しい」出力がもたらされているからである。「定義域が自然数」という前提があって正しいf(x)=x+1の入出力が担保されているのだ。
 「関数は定義域とコミになってのみ意味を確定する」という表現もこのことを念頭におけば少し“意味”が分かるのではなかろうか。関数は自然数、そして1に1を足すと2になる、2に1を足すと3になる・・・という数字どうしの関係、さらには数字という“言葉”が指し示す具体的事物との関係(これに関してはウィトゲンシュタインと異なる見解だが)、それによりもたらされる自然数の体系が前提となり、その関数の「意味」が確定されているということなのである。
 次に命題関数についてである。

ウィトゲンシュタインは複合命題を「真理関数」と呼ぶ。そしてこの呼び方は現代論理学でも一般的な呼称にほかならない。しかし、われわれはこの呼び名にだまされてはいけない。ウィトゲンシュタインはけっして論理語を関数を表すものとみなしてはいないからである。真理関数として見るならば、たとえば「pかつq」においてpとqは変項であり、そこには命題の真偽が入力される。出力はその結果として得られる命題の真偽である。このように、論理語「かつ」は、構成要素の真偽からその結果として得られる命題の真偽への関数とみなされるそれは真偽から真偽への関数であるから「真理関数」と呼ばれる。これが現代論理学の観点からの説明であるが、他方、ウィトゲンシュタインが「pかつq」を「真理関数」と呼ぶとき、それはいささかも関数ではない。第一に、ここにおいて「p」も「q」も命題であり、変項ではない。それゆえ「pかつq」は命題であり、関数ではない。第二に、論理語「かつ」は「p」の真理領域と「q」の真理領域の共通部分を取り出すという操作にほかならない。そして操作は関数ではない。それゆえウィトゲンシュタインは自ら「真理関数」という呼称を用いながらも、次のように注意を与える。
5・44 真理関数は実質的な関数ではない。

(野矢、177ページ)

・・・果たして”「pかつq」は命題であり、関数ではない”と断定できるだろうか?
 私は「pかつq」は様々な形で「関数」になると考える。そしていずれの場合においても”定義域”、その命題が「正しい」(あるいは「間違い」)であることを支持する前提条件、前提となる事実・事態というものがある。
 上記f(x)=x+1と同様に「pかつq」が常に「正しい」命題であると前提すれば、つまり「定義域」というか「pかつq」という命題がナンセンスではなく意味を持つ、具体的事実・事態を指し示すもので、常に「正しい」ものであると前提するならば、pとqには様々な命題が代入可能となる。つまり「変項」なのである。f(x)=x+1において自然数という体系を前提とした上でxに1や2や3などを代入できるのと同じである。
 「動物∧角がある」生物(これも「生物」という”定義域”が必要)という場合、現時点における生物分類、「動物」や「角」という言葉がどういうものを指し示すのかという具体的事実との関連性を前提とした上で、「真理領域の共通部分」を取り出す操作であると言うこともできよう。
 これは「真偽から真偽への関数」という「現代論理学の観点」とは全く異なるのではあるが、生物に関する事実認識という前提(定義域)に応じた事実の取り出し、つまり“出力”としてサイやらシカなどの動物(真理領域の共通部分としての出力)をもたらす「関数」と捉えることができるのである(“数”ではないのだが、特定の事実・事態を取り出すことに関してはf(x)=x+1と同様である)。
 生物という“定義域”を設定した上で「海に住む∧哺乳類」と“入力”すれば、出力として「クジラ」とか「イルカ」などの答えが取り出せる。このように「pかつq」はこの場合においてもpとqを「変項」とする「関数」と捉えることが可能なのだ。f(x)=x+1という関数が(自然数という)定義域を前提とした上で成立しているのと同じなのである。
 では「真偽から真偽への関数」という「現代論理学の観点」はどのような場面を指すのであろうか? ウィトゲンシュタインの見解と異なり、まさに“「p」も「q」も命題であり、変項ではない”場合においてなのである。
 「無門も道元もどちらかも寺にいる」つまり「無門は寺にいる∧道元は寺にいる」という言語表現(命題)がまずあって、その命題が正しいかどうか具体的事実を確かめた上で判断する場合がある。
 あるいは、無門や道元という人が寺にいる(あるいはいない)様子を絵に描いた上で、この絵は「無門も道元もどちらも寺にいる」状況を示しているのかどうか判断してもらう、という場合もあろう。つまり具体的事態をその命題が正確に表現しているのか判断するのである。
 p=無門は寺にいる、q=道元は寺にいる、はそれぞれ命題であり変項ではない。そして実際に無門も道元も寺にいればp∧qは「正しい」し、どちらかがいない、あるいは両方いない場合「間違い」になる。

p  q  p∧q   正しい命題
真  真   真    p∧q
真  偽   偽    p∧¬q
偽  真   偽    ¬p∧q
偽  偽   偽    ¬p∧¬q

 pが真とは、pという言語表現(命題)とその言語表現が指し示す事実・事態とが一致している、pが偽とはpという言語表現と事実・事態とが一致していないということである。

 このように、f(x)=x+1も「pかつq」も特定の事実・事態(定義域)を前提とした上ではじめて成立する関数と言えるのである。これは論理の真偽も定義域(つまり特定の事実認識)が前提となっていることを示していると言える。要するに論理はア・プリオリではないのだ。

 また、連言ではpとq双方が事実・事態と合致しなければならないため分かりやすいのであるが、選言や条件法の場合は前提条件によって真偽は様々な値をとりうる(時には値がない)ため、公式化することが難しい。特に条件法においては連言や選言とそのあり方が全く異なるため、そもそも真理表(真理値表)が成立しうるのか、という問題さえ生じてくる。それらについては以下のレポートで説明しているので参考にしていただきたい。

選言の真偽とはいったい何なのか:(¬A∨B)≡(A→B)に根拠はあるのか
http://miya.aki.gs/miya/miya_report38.pdf
A→Bが「正しい」とはどういうことなのか ~真理(値)表とは何なのか
http://miya.aki.gs/miya/miya_report40.pdf
(※ 条件法についてはその他いくつかのレポートで検証しています)



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