見出し画像

論証の妥当性は論証の形式ではなく内容、そして論理空間にかかわる

命題を(論理学的)トートロジーと決めつけた上でA→Bの真理値を逆算するのは正当か?
http://miya.aki.gs/miya/miya_report39.pdf

の第3章を修正しました。非常に重要な章になりました。
PDFファイルをうまくダウンロードできない場合は、経験論研究所:レポート一覧 のページからご覧ください。

****************


 戸田山氏は『論理学をつくる』(名古屋大学出版会、2000年)13ページにおいて、

〇〇はすべて□□である
□□はすべて××である
――――――――――――
〇〇はすべて××である

(※本稿では論証①とする)

・・・という形式をもっていれば、論証の内容がわからなくても妥当性が分かるとしている。しかし、論証がいくら上の形をしていても、1行目の内容、2行目の内容そのものが「正しく」なければ、いくら上記の形式であっても妥当ではないことは明らかである。

東京はすべて山形である
山形はすべて豆腐である
――――――――――――
東京はすべて豆腐である   (※論証②とする)

・・・これはどうみても妥当な論証であるとは言えない。「前提がすべて真なのに結論が偽になるようなケースはありえない」(戸田山、12ページ)とあるように、前提が「真」となること、論証①において〇〇、□□、××どうしが実際に、現実として、具体的に言語で示されたような関係を有していることが条件となる。その条件がそろってはじめてその論証は妥当であると言えるのだ。つまり「形式」ではなく「内容」なのである。
 戸田山氏は次の論証を、「偽の命題を含んだ正しい論証」(戸田山、10ページ)としている。

平賀源内は『スターウォーズ:エピソード1』の出演者である
『スターウォーズ:エピソード1』の出演者はみんなジョージ・ルーカスのことを知っている
――――――――――――――――――――――――――――
平賀源内はジョージ・ルーカスのことを知っている

(戸田山、9ページ、※本稿では論証③とする)

 しかし、これはどう考えても「正しい」論証とは言えないものである。偽の命題を含んでいる時点で、論証そのものの正当性を問うことなどできはしない。
 しかし、同じ”論理形式”で論証②が全く「正しい」と思えないにもかかわらず、論証③の場合は「偽の命題を含んだ正しい論証」であるという説明が少しだけ説得力を持ってしまうのはなぜであろうか?
 ・・・それは論証③で示されるようなフィクションの世界を想像することが可能だからである(ウィトゲンシュタインの言う「事態」として描けるということ)。私たちは平賀源内がタイムスリップしてスターウォーズに出演する様子を想像することはできるし、そういう小説を書くこともできる(一方で論証②のようなシチュエーションを想像することはできないように思える)。
 論証③は現実世界では全くの間違いである。ありえない。一方、平賀源内がタイムスリップしてスターウォーズに出演する小説というものがあったとして、その小説の内容について説明する場合、論証③は「正しい」ことになる。
 つまり、現実における論理空間とは異なる小説における論理空間というものがあり、それぞれにおける真偽関係というものがありうる、ということなのである。
 野矢氏は『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』(野矢茂樹著、筑摩書房、2006年)で次のように説明されている。

たとえば「サンタクロースがプレゼントをくれる」という命題において、「サンタクロース」が指示対象をもたないと分かったときのように。そのとき、要素命題「aはf」は偽とされるだろうか。それとも、ナンセンスになるのだろうか。
 こんどの答えは、「ナンセンス」である。
というのも、「aはf」は要素命題であるから、その名がいかなる対象も表わさないということになれば、それは端的に像として成立していないものとなり、像ではないものに対しては、真といえないのはもちろん、もはや偽と言うこともできないのである。

(野矢2006年、136~137ページ)

・・・「サンタクロースがプレゼントをくれる」という命題をナンセンスと判断するかは議論の分かれるところであろう。私たちは「サンタクロースがプレゼントをくれる」という状況を想像することができるし、そういったおとぎ話は世界中にあちこちあると思われる。そのおとぎ話という論理空間においては、「サンタクロースがプレゼントをくれる」という命題は真であると判断できる。しかし現実として考えれば当然、偽となる。
 つまり、同じ文章(命題)であっても、その命題の背景となる論理空間が現実であるかおとぎ話の内容であるかによって、その真偽判断が異なってくるのである。
 学校の授業では、国語の時間に小説の内容についての問題を解いて正解や不正解になる。野矢氏の説明では、私たちが学校で解いてきたそれらの問題の答えは全部ナンセンスということになってしまう。
 もっとも、世界中には公認されたサンタクロースの人たちがいるようなので、そのことを考慮に入れれば「サンタクロースがプレゼントをくれる」という命題はナンセンスどころか事実なのであるが・・・
 野矢氏はウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を引き合いに出し、次のように説明されている。

 3・25 命題の完全な分析がひとつ、そしてただひとつ存在する。

 これは論理空間がひとつであることを言い換えたものにほかならない。

(野矢2006年、139ページ:『論理哲学論考』からの引用含む)

しかし、ここまで説明してきたように、上記のような主張は正当化されない。実際には様々な論理空間が形成可能なのである。
 ここまで見てきたように、命題の真偽は、事実であれ事態であれ、現実であれ想像上のお話であれ、その命題が指し示す何らかの対象を見出せるかどうか、つまりその命題の意味・内容にかかわっているのである。
 それがつくり話でも良い。それが何らかの架空の対象でありうるのであれば、その対象を指し示す命題は(そのつくり話の論理空間においては)真となるのである。もちろん現実では偽となるのだが。そしてそれをナンセンスと呼ぶのかどうかは先に述べたように議論の分かれるところである。
 三段論法はその論理形式ゆえに正しいのではない。その内容、そして背景となる論理空間に応じて正しくなったり間違いになったりするのである。つまり論理形式のみから”恒真”であるという結論を導き出すことはできないし、それが論理学的トートロジーであるという根拠にもならないのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?