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第四話 チャンスの神様の前髪は突然に

この記事はシリーズものです。
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あるとき、栗刑事から僕の携帯のアドレス帳一覧を見せられた。

それはA四用紙にプリントされていて、見たことのない名前と電話番号がずらりと並んでいた。

当時、僕が二十代前半だったのも関係していたのかもしれないが、携帯番号の名義人が本人ではない人が多かったようだ。

ようするに親の名義で契約している人が、大半だったのだ。

だから、誰が誰だか、ほとんどわからなかった。

ただひとりを除いては。

― あれ? この電話番号ってもしかして。

どうしても気になる男性の名前があった。

その男性の苗字は、僕が好きな女性の苗字と同じだった。

何度もアドレス帳一覧を確認したけれど、その苗字はたった一人だけ。

おそらく間違いない。

彼女の旦那さんの名前だろう。

離婚を考えているとは聞いていたけれど、すぐに実現するわけではないのは知っていた。

― もし違ったら、どうしよう。

そうやって疑う気持ちもあったけれど、僕の直感が「彼女の電話番号だ」と言っていた。

取り調べの時間はかぎられている。とにかく今は覚えておこう。

電話番号を何度も心のなかで復唱した。

そしてその傍ら、チャンスの神様の前髪は突然現れると感じた。

神様が現れた瞬間、すぐに前髪を掴まないと去ってしまう。

僕はその前髪を根元からごっそり掴んだような気分で、絶対に離すもんかと思った。

相変わらず栗刑事は僕を口説いていたけれど、もうどうでもよかった。

黙れ、栗野郎。

うるせえ、だから黙れ、栗野郎!

口説き文句の合間を縫って、僕は彼女の電話番号らしきものを暗記した。

もしかしたらもう一度、彼女に会えるかもしれない。そう思っただけで、過酷な日々を乗り越えられる気がした。


取り調べが終わった僕は、看守にお願いして自分のロッカーに連れて行ってもらった。

そのなかに雑記帳が入っているからだ。

話し相手がいなかった僕は、規則に反しない範囲で、自分の近況や心境を日記のように書き綴っていた。

そこにいつものように日記を書くふりをして、覚えたてほやほやの電話番号を自分にしかわからない方法で書き残した。

そのころ、僕は接見禁止がついていて、家族にすら会えなかった。

だから、いつかそれがなくなって誰かが面会に来てくれたとき、この電話番号を伝えて連絡してもらおうと考えたのだ。

当然のことながら、この状況で会いに来て欲しいとは言えない。

でも、せめて僕は無事だと彼女に伝えたかった。

それが身勝手なお願いなのは、十分にわかっていた。

わかっていたけれど、そうせずにはいられなかったのだ。

それから一ヵ月くらい経っただろうか。

僕はまた移送されることになった。

移送先は、僕の地元。

それは物理的にいうと、彼女に会える距離だった。

会えるといっても、会いに来てもらわなければならないのだけど。

さて、誰にどうやって彼女の番号を伝えようか。

そのタイミングで、僕は、あることをはじめて知った。

国選の弁護士を一回だけ無料で呼べることだった。

すでに一度呼んでいたため、もう呼ぶことはできないと思っていた。

けれど、僕がかかわった事件の件数が多かったことから、何度か起訴される予定があり、そのたびに一回無料で弁護士を呼べるのだという。

彼女の電話番号を伝えるなら、このタイミングしかない。

移送後、僕はすぐに弁護士を呼んだ。

そこに現れた弁護士は、のちにあらゆる意味で僕の人生を大きく変える恩人になる。

「わかりました、無事だと伝えましょう。それと、もう一回無料でここに来てもいいですよ。彼女がなんと言っていたのか、結果を知りたいでしょう」

弁護士は、そう言い残して帰っていった。

看守の話によると、ふつうこんなことはないらしい。

僕はチャンスの神様の前髪を、ふたたび根本からごっそり掴んだのだった。

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