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印籠と化した乳房

銭湯に行くと女風呂の入口で咎められる。僕には、そんな時代があった。理由は僕の性別だ。物心ついた時から、僕は自分の性別に違和感があった。

その違和感がなんなのか、理解するまでに長い年月がかかった。女性という名の着ぐるみを着て生きる毎日。現在の僕は、その時代のことを「女装期」と呼んでいる。

「女装期」は、さまざまな面で大変だった。その一つが銭湯である。あれは、僕が本格的に病院へ通い始める、一~二年前のことだったと思う。ごく稀に、付き合いなどで銭湯に行く機会があった。

当時、僕が入っていたのは女風呂だ。まだ見た目は十分に男性化していなかったし、乳房の除去手術も受けていなかったため、致し方なかった。その状況は、見方を変えると僕にとってパラダイスだったともいえる。男が女風呂に入るようなものだからだ。

けれども、「女装期」の僕にパラダイスを楽しむ余裕は全くなかった。女風呂の入口で、最初の難所「あなたは、あっちでしょ」に出くわすからだ。「あっち」とは男風呂のことである。

僕にお咎めをしてくる女性は、大抵、気の強そうな中年女性だった。ここでは「お咎めさん」と名付けておく。お咎めさんに対する僕の返事は、いつも決まっていた。

「違います」

それだけだ。他に言いようがない。物わかりのいい人であれば、それで退散してくれた。ところが、なかなか退散しない人もいた。そんな時、一撃でお咎めさんを黙らせる方法があった。脱衣所で、さっさと服を脱ぐのである。

蛇足になるが、僕は乳房の除去手術を受ける前、それなりのサイズだった。学生時代の同級生から、形がいいと褒められたこともある。

僕にとって、どれだけサイズや形を褒められたとしても、たわわな乳房は憎き存在。自分の身体から早く取り除きたい邪魔者でしかなかった。

そんな邪魔者がお咎めさんの前に行くと、水戸黄門でいう印籠の役割を果たす。無言で性別を証明するアイテムになるのだ。その時、乳房は間違いなく僕のヒロインだった。

ところで、僕のヒロインが性別宣言をすると、それを見たお咎めさんの反応は二パターンに分かれた。「ごめんなさいね」と「紛らわしいのよ」である。僕としてはどちらでもよかった。ヒロインからふたたび邪魔者と化した乳房をタオルで隠し、早く風呂に入りたかったからだ。

こうして振り返ってみると、「女装期」は一般的にあまり体験しないことを体験した時期だったと思う。あの頃、僕は生きづらくて苦しかったし、死ぬことばかり考えていた。

今は、そんなふうに思うことはなくなった。それは僕の心が鋼のように強くなったからでも、強烈なポジティブマンになったからでもない。出来事に対する自分の解釈を理解し、その解釈を望むものに変えていったからだろう。

つらく苦しい出来事が起きると、誰かや何かのせいにしたくなることがある。それをやったところで、なんの解決にもならないのはいうまでもない。

今年もいろんなことが起こるだろう。もし、望まない出来事が起きてしまったら、僕は自分の解釈と向き合う冷静さと余裕を持ちたい。そうすることで、幾分か心が楽になると思う。

憎き存在だった邪魔者乳房が、お咎めさんの前で僕のヒロインとなったように。

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