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立つ鳥はあとを濁す 【後編】

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 人の焦げる匂いに辟易した俺は、営業部を後にした。エスプレッソマシンに惹かれるにしてはコーヒーを飲みすぎている気がするが、気持ちをリセットするスイッチというのは簡単に変えられない。俺のふらつく足は自然と制作部に向いていた。
 外見だけはラグジュアリーな体裁をしたエスプレッソマシンは、しかし動作しなかった。電源がないのだから仕方がない。俺はさっき朝比奈さんが残していったカップを手に取った。ほとんど口をつけなかったのだろう。冷め切っていたが、かすかに残る香りが鼻腔をくすぐった。
 コーヒーを啜った。酸化していてまずかったが、緊張はいくらかほぐれた気がする。俺はそのまま床にしゃがみ込んだ。視点が低くなるだけでいつもの職場がまったく違う場所に見える。この位置からは谷村さんの肥満した上半身が見えるはずだが、いまは彼も床に転がって……いない。
 そういえばそこで仰臥しているはずの三島の首なし死体もない。俺は立ち上がって室内を見回した。違和感があったのは当然だ。いっさいの死体が消えていたのだから。
「飲み終わったかね」
 突然の声。振り返ると、そこには白髪の老人がいた。
「飲み終わったのか、と聞いているんだよ」
 俺は事態を咀嚼できないまま、右手のなかのカップを見下ろした。量はほとんど変わっていない。
「では、片付けようかね」
 こちらの答えを待たず、老人は勝手に決めつけた。もとより他人の飲み残しだ。空にしようという気などなかったのだから、片付けてくれるのは歓迎だが。
 老人はデッキブラシで空中を擦った。俺の右手からカップが消えた。
「時代だから仕方ないのぉ。物が溢れているからな。飲み残しやら食べ残しやら、ゴミ箱にはたいそう入っとる。それでも、足りない時代よりは遥かに良いやな」
「……あなたは?」
「知らんかね。初対面ではなかろうが」
 清掃係の白髪のおっさんであることは知っている。聞きたいことはそれではない。
「あんたにとっては、ただの清掃夫だろう。だが、こういうかたちで再雇用されることもあるんだよ。かつては総務部の安河内と呼ばれていたがね」
 薄暗い空間で、老人の口元が光った。ネオンの明かりが銀歯に反射したに違いない。
 俺は背中を駆けあがる鳥肌につきたてられ、手元でワイヤレスマウスを操作した。空中にカーソルが出現する。
「年寄りの話は長いかね」
 俺は目を疑った。カーソルが消えてしまったのだ。彼がデッキブラシで空中を擦ると同時にだ。
「落ち着いて話を聞くくらいの、心の余裕を持った方が良いやな」
 マウスを握る右手にじっとりと汗が滲む。
「……ええと。やす……?」
「安河内」
「初めてお名前を知りました」
「知ろうとせんかったろう」
「それは確かに」
「構わんさ。あんたはましなほう。あからさまに見下してくるもんもいるからな。多田とかいう若造は、じじぃ呼ばわりして酷いもんさな。あんたが頭を吹き飛ばしてくれたがね」
 多田にはそういうところがあった。自分が価値あると認めた相手には腰が低いが、そうでない相手には尊大だった。
「あなたは、なんのために?」
「はっ。掃除夫が掃除することを訝しるかね」
「そうではなくて」
「理由はあんたと一緒。きれいさっぱりなかったことにして撤退するのが、評議会からの指示でな。そのあたりは、うらみっこなしさな」
 俺は無意識のうちに後退りした。
「みんなを動かない死体にしてくれたことはありがたいんだがね。もう少し、おとなしくはできんもんかね。血やら脳漿やら、なんだかわからんもんが散らばって、掃除するのに手数がかかってしかたがない。まぁ、無い物ねだりかもしれんが」
 安河内老人がデッキブラシを構える。俺は背を向けて走った。死角へ。とにかく死角へ。停電中のフロアを、窓から漏れ入るネオンと、非常口を知らせる緑色だけが淡く照らしている。俺はデスクの輪郭を捉えると、その影に滑り込んだ。そして予想通り、そのデスクは消滅した。さらに走り隣のデスクへ。それも消えた。
 俺はカーソルを出した。それに気を取られている数瞬は時間が稼げるはずだ。フロアをジグザグに走りながら、適当に爆破する。障害物が消され、カーソルが消される。また出現させる。走る。消される。出現させる。走る。爆破する。消される。出現させる。爆破する。消される。走る。
「ひょ」
 老人は妙な声をあげた。おそらく笑ったんだろう。
「そのうち隠れる場所がなくなるぞぃ」
 老人は両手でデッキブラシをしきりに動かしている。動かすたびになにかが消える。次の瞬間に消えるのは自分かもしれない。俺は怖くなってそこにあるものを掴んで放り投げた。それは誰かのスマートフォンだった。俺が触れたことによって液晶画面が点灯し、回転しながら老人へ向かって飛んでいく。老人は目を細めて一歩下がりながらデッキブラシを操作した。
「ひょ」
 スマートフォンを消し去った老人は、また妙な声で笑う。
 俺はペン立てからボールペンを引き抜くと、アンダースローで投げてみた。大きな放物線を描いてペンは飛んでいく。ペンは老人の白髪に当たって、音もなく落ちた。
「ん。なにか投げたかね?」
 なるほど。デッキブラシは脅威だが、安河内老人にとってこの暗さは障害になっているのだ。さっきはスマートフォンのバックライトが明るすぎて焦点を合わせるのに苦労したのだろう。その直後だからボールペンは視認できなかったのだ。
 であれば。あとはスピードだ。
 俺はペン立てからカッターを選び取り、刃を突き出して投げた。今度はオーバースローで。老人は俺の動作に警戒を示したが、飛んでくるものを認識できていない。デッキブラシは動かず、カッターは老人の左肩に突き刺さった。
「ぐひょ」
 呻きだか笑いだかわからない妙な声を、老人は発した。
「仕方がありませんよ。目が衰えるのは自然なことでは?」
「同情は無用。老化は誰にも平等に訪れる」
「私なんかは、生来視力が良いので。はやめに老眼になるぞと両親にはいつも言われています」
「ご両親は対策を教えてくれたかね」
「いや、まぁ特には」
「そうかね。わしには自分なりの対策があるんだが、聞きたいかね」
「後学のために」
「見えないなら、全部消してしまえば良い」
 俺は手元を見た。ペン立てはなくなっていた。マグカップも、セロテープ台も消えていた。周囲を見回す。スタンドライト、書籍類、ペットボトルが消滅している。もう一度反対を見回す。キーボード、マウス、デスクトップコンピュータすら消えていた。もはや、デスクの上になにもない。
「これでもう投げるもんはなかろう。それとも机を投げるかね」
 左肩から血を流しながら、老人は笑った。消費者金融のネオンが老人の銀歯を青く光らせた。
 俺は無意識のうちに後ずさった。腕の毛穴がひろがり、鳥肌となって全身を駆け巡る。後ろに下がりつつ、俺は違和感を覚えた。部屋が広すぎるのだ。振り返ると、背後に並んでいたデスクは一台もなかった。視線を戻すと、前にあったデスクも消えていた。
 あらゆる物が消えたフロアは、まるで入居前の貸しオフィスのようだ。もう、この空間には俺と老人しかいない。
「チャンスをやりたいところだが、そうもいかんでな。まだ上の掃除が残っとる。あんたら、ずいぶん散らかしたろう」
「まぁ……少々」
「若気の至り、結構なことだ。あのお姉ちゃんと喧嘩の続きをやってくるといい。あの世でな」
 安河内老人は、デッキブラシをゆっくりと構える。俺は目を閉じた。
 消える、という感覚がどんなものかわからない。意識はすぐに消失してしまうのだろうか。ならいま思考している俺はまだ生きているのか。まだ肺は呼吸しているし、鼓動は脈打っている。それに、鼓膜は安河内老人のつぶやきを聞き取っている。「あれ、おかしいな」と。
 恐る恐る目を開けると、老人は俺を見つめたまま、デッキブラシをしきりに動かしていた。そこに笑顔はない。
「あれ。よいしょ。そんなはずは……」
「どうされたので?」
「消えんのだ。あんたが。おかしい。よいしょ。ほれ」
 俺はなにが起きているのかわからず、立ち尽くしていた。助かった……と考えた瞬間に消されるような気がして、老人から目が離せずにいた。だから、老人の背後に立つ人影に気づくのが遅れたのだ。
 そのシルエットに、俺は見覚えがある。小柄で、長いとは言えない四肢。だが立ち姿は堂々としている。クシで適当に後ろに流した髪は、耳を半分覆うほどに長い。真夏以外は首に巻いているストールがその襟足を持ち上げている。頭に乗せたやや大きめのバケットハットを、その右手がつまんだ。
「泉、やってるな」
「重松さん!」
 俺の恩人。
「出張じゃなかったんですか!」
「出張だよ。戻ってきたんだ。たったいま」
 重松さんは俺から視線を外すと、老人に対して頭を下げた。
「安河内先輩。お邪魔してすいません」
「おお。重松。これはまずいところを見られたかな」
「いや。問題ありません。俺も、そっちなんで」
「そうなのか」
「はい。黙っててすいませんでした」
「ということは……これは?」
 安河内老人は、デッキブラシを抱えたまま、俺と重松さんの顔を交互に見た。
「はい。俺の能力です。あなたには泉を消すことはできません」
 老人は動きを止めた。
「邪魔をするのか。重松」
「だから最初に謝ったじゃないすか」
「なぜだ」
「いや、辛いっすよ。お世話になった先輩と、可愛がってきた後輩と、どちらを選ぶかなんて問題はね。ただなんていうんですかね。親心ですかね。泉を他人の手で殺されるのは我慢ならないんすよね」
 安河内老人は、重松さんに向けてデッキブラシを動かした。
「ぬ……消えない」
「何事もやってみなければわからない。というのはあなたから教わったことでしたね。今でも貫いてらっしゃるのは感服します。しかし、わかるべきですよ。泉を消すことができないなら、俺を消すことだってできない」
「なぜだ!」
 老人は怒鳴った。近くにデスクでもあれば蹴飛ばしていただろう。しかし、このフロアにあるものは彼自身がすべて消してしまっていた。
「なぜだ……って。対戦中の相手に、能力をぺらぺら喋るわけないでしょう」
 重松さんは傍に置いたキャリーバックを開いた。その動作の緩慢さは明らかに挑発を含んでいる。ゴソゴソと中から取り出したのは拳銃だ。
「さて。あなたは俺を消すことができない。したがって、俺が持っているこの拳銃を消すこともできない。しかし、自分に向かって飛来するものを消すことはできる。問題なのはスピードです」
 重松さんは銃口を老人に向けた。
「生き残りたかったら弾丸を消してください」
 安河内老人は熊のような唸り声をあげ、デッキブラシを持ち上げた。その直後、額を殴られたかのようにのけぞり、天を仰いでそのまま崩れ落ちた。消費者金融の青いネオンが照らすのは、拳銃を懐にしまう重松さんの横顔だった。
「待たせたな。泉」
「いえ……おかえりなさい」
「屋上に、行かないか?」
 俺に異存なんてあるはずがない。


「ほれ」
 重松さんは缶コーヒーを俺に手渡した。まだしっかり冷えているそれは空気中の湿度を吸い込んで、表面に水滴を纏っている。
「BOSSブラック…珍しくないですか?」
「それしかなかったんだよ。たまたま」
 手摺壁に寄りかかっていた重松さんは、そのまま首を傾けて缶をあおった。長めのグレーヘアーが風で少し揺れる。いつだったか、ジョージアかUCCかで好みがわかれ、重松さんと侃々諤々の議論をしたことを思い出した。
「いただきます」
 そういえば南から低気圧が接近しているとか、ニュースアプリで見たような気がする。空気が少しだけ生ぬるく感じる。そのせいか、冷えた缶コーヒーは格別に美味かった。朝比奈さんと飲んだときよりはるかに。
「なんか聞きたいことがあるんじゃないのか。泉」
「……山ほど」
「ひとつひとついこう。時間はあるからな」
「じゃあ……出張どうでした?」
「先方とは付き合いが長いからさ。どうもこうもないんだよ。お約束のことばっかりやっても芸がないが、新しいことにチャレンジするには、予算の制限があるし、なにより担当者が失敗を恐れているからな。無難に小さくまとまりたいのさ。まぁ、地方の制作局なんてどこも似たような環境だろうが」
「そういうもんですか」
「チャレンジ精神旺盛なやつはネットのほうに行くってのもあるよな。いずれネットにも規制の波が行くだろうが、それまでのあいだにやっちゃおうってな。っていうか、それが最初の質問だと思わなかったぜ」
 重松さんは飲み干したコーヒー缶を手のなかで弄んでいる。
「すいません。俺、ちょっと現実が受け止めきれてません」
 高らかに笑うと、重松さんは空き缶を思いっきり放り投げた。それは甲高い音を立ててワンバウンドすると、貯水槽をかすめるようにして、俺の空けた大穴に吸い込まれていった。
「大変だったな。夏目や朝比奈と戦ったんだって?」
「どうしてそれを?」
「倶楽部から情報が入ったよ。だから急いで帰ってきたってのもある」
「重松さんは彼らのことを知ってたんですか?」
「さぁどうだろうな。少なくともこうなることは予想してなかったよ。外資に吸収されて、撤収の指示が出るなんてな。もう少し堅実に進むとばかり思ってた。まぁ、甘かったな……お互い」
 俺の肩をどんと叩く。
「飲み終わったか?」
「あ……はい」
「じゃあ始めよう」
「あの……始めるって?」
 重松さんは無言で歩みを進めた。ここには空調の室外機が林立している。業務用のそれは、ひとつひとつのサイズが巨大だ。冷蔵庫を二段二列に組み合わせたほどの大きさで、ちょっとした塔だ。重松さんはそれらに囲まれた、ちょうど屋上の中央あたりで立ち止まった。
「仕事だよ。制作じゃないほうの」
「ちょっと待ってください。重松さん」
「うん。待ってやる」
「え?」
「最初の攻撃ターンをお前にゆずるよ。やってみろ」
 なにを言われているのかわからない。
「いや……でも」
「ためらうな。ほら、チャレンジ精神」
 俺に重松さんを殺すなんてできるはずがない。それができるなら、わざわざこの日を選んでいなかった。本当は、今日は帰ってこないはずだったじゃないか。重松さんは。
「……できませんよ」
 俺は右手の感触を確かめた。握っていたのはワイヤレスマウスではなく、空き缶だったのを思い出した。もう表面はすっかり乾いている。
「できないという台詞はさ。やってみたあとで言えよ。ったく、しょうがねぇなぁ」
 重松さんは懐に手を入れると、拳銃を取り出した。銃口が俺の足元を狙う。
「俺、別に射撃が得意なわけじゃないんだよ。急所に当たったらごめんな」
 不思議な感覚だった。鼓膜が音を察知するほうが早いのか、足が衝撃を受けるのが早いのか。とにかく左足の甲が爆発した。一瞬遅れて、痛みの信号が脳を殴打する。俺は反対の足に全体重を預け、そこにしゃがみ込んだ。全身に警報が駆け巡る。このままでは殺されると。
「よかった。ちゃんと命中した」
 手を大きく広げながら、重松さんは言った。激痛に耐えているのに、ジュディ・オングみたいだなと思う余裕があったのが不思議だ。俺の手からこぼれた空き缶がコンクリートを転がっている。
 俺は無意識のうちにポケットに手を入れ、ワイヤレスマウスに触れた。
「そうそう。まずやってみろ」
 空中に出現したカーソルが、重松さんの眉間を指す。
「重松さん」
「ためらうな」
「……あの」
「ためらうなら、もう一発撃つぞ」
「お世話になりました」
「おう」
 彼の顔面で爆発が起きた。だが覚悟はしていた。安河内老人のデッキブラシは、重松さんになんの影響も及ぼすことができなかったのだ。俺の爆破が通用する理由がない。
 爆風がおさまったあと、重松さんは涼しい顔でそこに立っていた。焦げあとどころか、なにひとつダメージを受けている様子はない。頭髪一本すら焼けていない。
「あまり驚いていないようだな」
「……そう簡単にはいかないだろうと」
「察しがいいのはお前の強みだ。泉」
「あらゆる攻撃から自分を守る能力……」
「当たらずとも遠からず、かな。もう少し具体的に言ってみろ」
「シールドとか……バリア?」
 重松さんは面白そうに首を振る。
「……いや、ひょっとして、レイヤー?」
 指がぱちんと鳴る。
「そうだ。俺の能力はレイヤーだ。さっきは、俺自身とお前のカーソルを別レイヤーにした。異なるレイヤーに影響を及ぼすことはできない」
「現実世界にレイヤーを定義できる能力……」
 なるほど。安河内老人がいくらデッキブラシで消しそうしても無駄だったわけだ。そもそも老人のいた階層には、なにもなかったわけだから。
 これは実にやっかいだ。というより、俺の能力との相性が悪すぎる。俺は二次元的に視認できる対象にしかカーソルを合わせられない。なのに重松さんはいくらでもレイヤー階層を変えることができる。俺の爆破の影響が彼に届くことはないだろう。
「さて、わかったところで、なにか言いたいことはあるか?」
「なんか、便利そうな能力ですね」
「便利?」
「いやだって、雨が降ってきても濡れないじゃないですか」
 重松さんは実に楽しそうに笑った。
「それができれば最高だよな。たださ、自然界には影響できないんだよ。たとえば海に落ちたとするだろ。レイヤーを分ければ溺れないような気がするけど、それはできないんだよな。海はそこにあるし、俺は水のなかだ。もちろん重力にも逆らえない」
 なるほど。たしかに。そもそもそれが可能になるなら、新しいレイヤーには空気が存在しないことになるから、窒息してしまうだろう。
「じゃあ、わかったところで、俺のターンだ」
「重松さん」
 俺に向いた銃口が弾ける。背後の手摺壁が音を立てた。
「外れたよ。そんなに得意じゃないんだよ。苦しませているようで悪いな」
 一か八かだ。
 重松さんが引き金を絞る。その瞬間、俺はマウスをクリックした。
 弾丸が俺の右肩をえぐる。衝撃で上体がのけぞったせいで、手元が狂ってしまった。爆発は重松さんの足元で起きた。コンクリートの破片が飛散し、彼の頬に小さな傷をつくった。
「……やるじゃないか。説明してみろ」
 頬に滲む血を、手の甲でぬぐいつつ彼は呟いた。
「こちらの攻撃は届かないのに、重松さんの攻撃だけが届くのはおかしいと思いました。自分の攻撃ターンのときだけ、レイヤーを統合しているんじゃないかと」
「だからその瞬間を狙ったというわけか。………危なかったな」
 俺は自分でも意外だった。あの瞬間、俺はためらいを感じていなかったのだ。もし手元が狂っていなければ、いまごろ彼の腹には大穴が空いていたはずだ。
「差し違える覚悟を持ったやつが、もっとも危険なんだよ」
 重松さんはトレードマークのストールを、ジャケットとともに脱ぎ捨てた。俺も身軽になりたかったが、右肩を撃たれているから服を脱ぐのは無理そうだ。
「泉。これから俺は、お前の視界から消える。どういう意味か、わかるな」
 俺は無言でうなずいた。立ち去ろうとする重松さんの後ろ姿を、試しに爆破してみる。爆煙が風に流れ、なんの影響も与えられなかったことを知らされた。やや小さくなった後ろ姿は、林立する室外機のひとつに消えた。
 少なくとも位置を変えなければ。
 なんとか立ち上がりながら、彼の消えた室外機を破壊する。三発くらわせたら横倒しになった。
 動かない左足を引きずる。全体重を右足が受け止めると、着地の振動で右肩の銃槍に激痛が走る。それでも移動しなければ。
 夜空に銃声が響き、俺の後頭部を銃弾がかすめた。
 俺はおおよその見当をつけて、室外機の列を薙ぐように爆破する。
 続けざまに発砲音がして、すぐ横にある配管が甲高い音を立てた。
 俺はクリックを連打する。カーソルは移動しながらその先にある構造物を破壊してゆく。室外機は倒れ、寸断された排気ダクトから湯気が立ち昇る。最後の一発は、向かいのビルの外壁で炸裂した。
「泉」
 しばらく攻防を続けたあと、重松さんは俺を呼んだ。すでに自立している室外機はない。すべて穴だらけになって倒れ、転がっている。貯水槽も、デリカシーのないやつが剥いたミカンの皮みたいになっていた。
 そして俺は、腿と臀部に銃弾を撃ち込まれ、左手の指をいくつか失っていた。もう移動することはできない。
「泉。おまえはよくやったよ」
 残骸の向こうから、恩人が歩いてくる。
「……重松さん」
 興奮しているわけではないのに、呼吸が荒い。背中の手摺壁が冷たかった。
「もう弾を撃ち尽くした。ここまで手こずるとは思わなかったよ。もう少し射撃の練習をしておいたほうが、いいのかもな」
 銃をそのへんの残骸に置きつつ、重松さんが言う。俺はカーソルを彼に合わせているが、クリックしても無駄なのはわかっている。当然、俺と彼のレイヤーは別だろう。
「苦しいか。泉」
「……はい。苦しい……痛いっす」
 彼は、心から気の毒そうな顔をした。
「すまないな。おまえがもうちょっと弱ければよかったのに。でも誇らしいぞ」
 重松さんは、ズボンのポケットを探ると、フォールディングナイフを取り出した。折り畳まれた刃が飛び出し、ネオンの反射で青白く光る。
「あとはこんなもんしかない。うまく楽にしてやれるといいんだが」
 俺の動かない足をまたぐようにして、重松さんはしゃがみ込んだ。目線がほとんど俺と同じ高さになる。俺はカーソルをまだ彼に合わせている。
「……重松さん」
「じゃあな、泉」
 腹部から突き上げるように、ナイフが侵入してきた。自分の臓器が抉られるのがわかる。呼吸が一気に苦しくなる。肺が傷ついたのだろうか。
「……重……松さん」
「なんだ?」
「自分の……胸元を見て……ください」
「泉。もうしゃべるな」
「……そう言わずに」
 重松さんはしばらく俺を見つめていたが、意を決したように視線を落とした。
「これは……」
「ナイフで刺すなら……レイヤーを統合するしか……ありませんよね。それが……最後の……チャンス」
 いま、俺のカーソルは矢印の形をしていない。人間の手の形状。それも、なにかを握る形をしている。
「ドラッグ?」
 重松さんは立ち上がろうとして、それが不可能なことを悟ったようだ。眼球や、四肢の末端は動かせるが、体幹は微動だにしない。俺のカーソルが彼の肉体をドラッグしている最中だからだ。
「な……おい。泉」
「重松さん」
 俺は最後の力を振り絞って、左腕を彼の首に回した。
「泉、なにをする」
「クリックするだけが……マウスの機能じゃ……ないですからね」
 俺は愛用のワイヤレスマウスの背を撫で、スクロールした。重松さんの身体が空中に浮かび上がり、俺はそれにぶら下がるようにして一緒に持ち上がる。
「おい! 離せ!」
 さっきまで戦っていた屋上は足元に。改めて眺めるとずいぶん派手に破壊したものだ。
「離せ! 泉!」
 俺はさらにスクロールする。景色がぐっと下方へ流れていく。消費者金融のネオンも小さくなった。
「泉!」
 さらにスクロールする。近隣のビルは沈み、中心部の高層ビル群がよく見えるようになった。
「泉!」
 さらにスクロールする。港湾とコンビナートは夜通し稼働するのだろうか。
「泉! 俺が悪かった!」
 さらにスクロールする。夜の太平洋はまるで漆黒だ。足元の夜景とのギャップに感心する。
「泉! もうやめてくれ!」
 夜景が日本列島を縁取るというのは本当だった。とても美しい。
「泉! 頼むからやめてくれ!」
「……重松さん」
「なんだ、泉! なんでも言ってくれ!」
「俺……重松さんに仕事を……教えてもらえて……よかったです」
「これからも教えてやる! だからもう降ろしてくれ!」
「……重松さん」
「泉! しっかりしろ!」
「……重松さん」
「泉!」
「……しげ……まつ」
 俺は握っていたマウスを手放した。ドラッグ&ドロップ。
「泉ぃ!」
 俺と重松さんは自由落下を開始した。もう左腕に力はない。俺たちは空中で別れ、爆風に巻かれていった。
「泉ぃぃぃぃぃぃ……」
 重松さんの声が遠ざかっていく。
 風に流されていったのか、それとも俺の意識が遠ざかっているのか、それはもうわからない。ただ、東のほうの空に光が射しているのが綺麗で、俺はずっとそれを見つめていた。
 あの金色が街を照らすころ、俺たちはもう生きていない。

 完


こちらはバールさんの絶叫杯参加作品です。

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電子書籍の表紙制作費などに充てさせていただきます(・∀・)