決断主義のその先を考える(2)

(1)では、「大きな物語」の崩壊により自らの身体性に基づいて自分が生きるための「小さな物語」を要請された個人が、少数のインフルエンサーの提供する価値観を「編集し、リミックスした個性」を決断主義的に作り、その物語に自分を適合させていくという過程について考えた。

そのようにして、ゼロから作ることなく、比較的手軽に自分の物語を作成することでアイデンティティの危機をやりすごそうとするのであるが、このようなつぎはぎされたアイデンティティには常に不安定さが含まれるのではないかという懸念があった。

まず、もう一度ハッシュタグ的な個性と、既存の様式的な個性についてもう少し比較してみたい。

既存社会におけるアイデンティティの持ち方として代表的な例で言えば、例えば国立大学卒であるとか、有名大企業に勤めていて年収が高いとか、結婚して子供がいて持ち家があるとか、そういったものがある。このようなアイデンティティに特徴的なのは、例えば知識をインストールして手元に溜めていくとか、金銭を貯金していった手元に置いておくというように、いずれも蓄積型のアイデンティティであるということである。ある一つの価値観が固定化して世の中に存在する時には、そのフレームの中で認められた価値をいかに粘り強く蓄積していくかということに重点が置かれるのは自然なことだろう。このような価値観は、データを全てダウンロードして手元に溜めておいてから作業する、といったような考え方によっている。

一方で、この頃台頭してきているように感じるハッシュタグ的な個性と言うものは、蓄積型の価値観とは異なっているように思われる。むしろ元々は決断主義的なサバイバル感覚から生まれてきたものであるから、気まぐれであり、軽やかであり、即興的であるような特徴を持つようである。こういった価値観の持ち方は、インターネット上で手に入れた情報をその場その場で編集的につなげあわせて利用するような方法である。SNS上でのハッシュタグの概念はもとより、反知性主義と言われるような考え方も、蓄積型の旧来の価値観に対してリミックス型の価値観を揶揄したもののようである。現在の若者においては多くの哲学書を読み耽っている学生がすごい、というような教養主義的な観念はほとんど皆無と言ってよい。それが認められるのは、哲学仲間のクラスター内においてか、あるいは哲学を一つのファクターとして、編集的に自己プロデュースを行い、SNS上でフォロワーを稼ぐ、といったことに成功した時ぐらいだろう。

SNS上における現象の一つとしてしばしば問題にされる「炎上」では、実は議論の内容そのものに重点が置かれていないのではないだろうかと感じられることも多いのではないだろうか。これも、編集的な価値観によるものであることを考えれば不思議なことではない。編集するそれぞれの素材に入れ込むということはリミックスにおいて必要なことではなく、今炎上しているものをテーマとしていかに様々な情報から素材を集めて組み合わせるか、というブリコラージュ的なものとして個々の発言があるからである。このようなことからすると、現在のSNS的なコミュニケーションにおいては、発言の内容やアイデンティティの内容自体にはあまり意味がなく、その素材をどのように寄せ集めて組み合わせるか、という裏側で働いているセンスを人々に誇示することが目的であることが多いと考えられる。こういったことはSNS上だけにとどまらず、現実での会話や、人々の日々の行動指針自体にも影響を与えているように感じられる。

この比較においてSNS上でフォロワーを稼ぐことで認められる、といった特徴的な様相が出てきたが、これら二つの価値観における価値の認められ方を見てみよう。

既存の価値固定的な社会においては、テレビなどのマスメディアから流れてきた情報を受け取ったり、学校、家庭における権力ピラミッドの頂点としての教師や父親の価値観をトップダウン的に押し付けられ、自らのうちにダウンロードしていくことでここでも蓄積的に価値観を植え付けることになる。であるから、ある個人の価値についての評価は、順繰りにピラミッドの上の方の人へと伺いを立てていき、最終的にトップダウン的に価値が決まることになり、それに周囲の人も追従するという形をとる。

一方で編集的な価値観においては、SNS上でフォロワーが多いとその人(アカウント)は優れた価値を持つとか、いいねが多いとその発言は優れているとか、そういったネットワーク上に繋がった個人による、ボトムアップによる価値の承認に基づいている。ここにおいて人々は一人の人間というよりもアカウントとして振る舞い、ある編集された価値観の寄せ集めを代表するものとしてアカウントが置かれる。すると人々はある価値観の寄せ集めを作る毎にアカウントを作ることになるから、一人の個人が複数のアカウントを持つことが当たり前になり、それら複数のアカウントの寄せ集めの裏側に個人がいるのであるが、ここにおいて統一的な人格としての個人は隠れていることが多い。そして、こういった半匿名的なアカウントの集合によるオーディエンス兼出演者の、互いにいいねを付け合う承認ゲームの結果によって、疑似的な世論が生まれ、それが既存の固定的な価値観に対する代替的な価値観として公共性を生んでいるようだ。この疑似的な世論が一応の公共性を持っているから人々はいいねの数によって一喜一憂することができるのであろうが、一方でこの世論というものは安定した地盤を持たない、半匿名的で価値観を寄せ集めてできたアカウントの集合であるから、その内容というものはかなり流動的に変わることが予測される。少しの外乱に対してかなり鋭敏に反応して内容が変わっていくことになるので、至るところで価値観の齟齬が生まれるが、その齟齬さえも編集ゲームの素材として包摂されていく。

〜つづく〜



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