関係性による実在 数学と仏教

遠山啓の無限と連続という本を読んでいる。

この本で途中から出てくる抽象代数学、というものの発展の仕方が、とても面白かった。というのも、なんだか禅宗の文脈で出てくる、空から縁起へ、という流れに似ていたからである。

少し話は飛ぶが、僕が受験生の時に河合塾の直前講習のようなものを受けたことがある。そこの英語の授業で講師の方が言っていたことで唯一覚えているのが、「人間の思考の本質とは、比較である」ということであった。

僕たちは常日頃、世の中には様々なものがあり、そしてその間に色々な関係を持っている、というふうに考えていることが多いと思うが、よくよく観察してみると、その最初に仮定されている「ものがある」というのにおける「もの」というのも、ある種の関係性が集まったものをパッケージ化したようなものだ。

例えば、僕たちが視覚においてものをものと判断するには、まず見えている光景を図と地、つまりものと背景に分ける必要がある。この時、まずは同じ色が続き、隣には違う色がある、というようなことから線を認識し、それの連続で輪郭を認識したりして、ものというまとまりを抽象してくることができる。要は、周りとの比較によって、初めてものを認識できるというのは、知覚のレベルから成り立っていることなのだ。

そして、こういった比較によってものを認識する、ということは、つまり関係性の集まりそのものが、僕らが認識する多種多様なものの集まりを形作っているということだ。逆に言えば、ものの間にある関係性を十分精密に記述することができれば、そのもののことも十分知れることになる。

抽象代数学では、集合の要素を、なんの特徴もない要素の羅列として見るだけでなく、その要素の間にある関係性も考慮に入れることによって、集合論の抽象性から、一段具象的な面にも光を当て、より物事の多様性を観察することにも対応できるようになったということであるようだ。

そしてこれは禅宗における空から縁起への流れに似ている。普段ものはそれぞれが独立に存在するように見えるが、実はそれは他のものとの差異により消去法的に決まる主体であって、ものそのものというのは存在しない、という若干否定的な立場が「空」という見方であるというふうに理解している。そして、そこからそのものの間の、多様な関係性により、この豊かな世界が現出しているのだ、というより肯定的な立場が「縁起」であるのだと思う。この「空」の理解から「縁起」の見方へと進むことを禅宗では勧めるのである。ここで「空」は「集合論」に対応し、「縁起」は「抽象代数学」に対応するように思えるのだ。

そしてもちろん、この具象性による多様性の世界、縁起の世界に実は僕たちは生きているのであり、そこへの考察を目指していくことが、より豊かな学問を生んでいくはずである。そこの乱雑さを避けるために抽象性から出発したのが数学であると思うけれど、抽象性を極めた集合論から、また多様性を記述できる方向へと転回してきたというのは、とても興味深いことであるように感じた。

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