暇と退屈の倫理学と勉強の哲学

別にたくさんの哲学書を読んでいるわけではないので勝手なことをいうのは恐縮なのだが、上記の二冊、つまり暇と退屈の倫理学と勉強の哲学の論にはかなり類似した構造があるように感じた。

まだ全部読んではないのだが、暇と退屈の倫理学は、人は勉強していくことによって自らの環世界を広めることができるが、それをし過ぎてしまうことによって可能性が過大になり、興味が分散してしまって退屈してしまう、ということであっただろう。だから、人は広げ過ぎてしまった環世界を自分なりのルールを設けることによってちょうど良く狭めることで、苦しい退屈から逃れられる、ということにまとめられるような気がしている。このちょうどよい具合を探そうとする試みが人間らしさであり、退屈の第二形式にあたると思う。

この環世界を広めすぎるということは勉強の哲学でいうユーモア過剰の状態に相当するのではないか。それでは勉強の哲学でいうアイロニー過剰の状態はなにに相当するかというと、おそらく環世界を狭め過ぎるということだろう。これはある意味でデータ分析における過適応みたいなものである。そして、このユーモアとアイロニーのそれぞれをどこかで止めて、ちょうど良い塩梅にするというのが勉強の哲学における結論だったと思うと、それらは相当似ている。

そして退屈論においてユーモア過剰が問題になるのは、人間がより多くの見方を獲得することによってこれまで利益を得てきたために、幼い頃から勉強をして多くの見方を獲得することを期待されるようになったからではないか。特に頭の良いといわれるような人に退屈の第三形式がより現れるように見えることもこの事情によるように思われる。

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