寺山修司 笑わない子供

以前寺山修司が徹子の部屋に出ている(!)のをyoutubeで見た時、「この人は全然愛想笑いをしないな」と感じ、黒柳徹子にも全然怖気付くことがないのはさすがだなあ、などと思っていた。一方で世の中ではこんな感じだと冗談がわからない人だと言われるよなあ、とも。

そんなこともしばらく経って忘れていたのだが、「首吊り人愉快」というエッセイ(ちくま日本文学 006 寺山修司)に、彼は笑わない子供だった、そして今も笑わない男である、といったことが書かれてあり、あのyoutubeの笑わない対談を思い出した。

その中で、俳優は、笑ったり泣いたりすることを、自らの生理にするのでなく、複製可能な手振りにして還元してみせることで、自分の頭が冷静に保たれている、ということを示すのだ、とベンヤミン・ブレヒトが「複製芸術としての俳優術」の中でいったことが引用されていて、これが現代人には通用しなくなっている、というのである。これはなぜか。

ここで笑い方がテレビドラマの主人公にそっくりな女のことを引き合いに出しているが、つまり、現代人はすでに、笑うことや泣くことといった生理的な面でさえもテレビドラマなどのメディアからの複製になっているというのだ。そのために、俳優の演技が生理的なものなのか冷静に作られた複製品なのか、もう区別が付かなくなっているということである。これは、この時代でありながらすでに今の時代まで見通した鋭いメディア分析であると思う。

現代人は、何か祝祭性のあるイベントごとがあるたびに、SNSで他人の反応をチェックしながら、それらを反映した複製の感情をまたSNSにアップしていく。ここでは、新奇性があることを言うよう求められているように一見見えるが、実はより精密に他者の感情を複製することが求められているのであって、またそうした「的を射た」発言が、より強い影響力を持って他の人達に複製されていくのである。

人々が繋がれる、というSNSは、うまく使えば独立した個人が他人とよりよく相互作用することができるが、一方でインターネットの速さと他人に関する情報の量によって、独立しない多数の他者が、あたかも大きな一人の個人であるかのように振る舞うことを助長しているのではないか。多数のSNSアカウントがごちゃごちゃにつながり合うことによって、神経のネットワークができ、あたかも一つの脳を形成しているかのように思える。

これは、即時の膨大なフィードバックを持つネットワークがあれば、事実上一つの人格を持つかのように振る舞うことがある、ということに一般化できるのではないかと思った。

笑う、というのはおそらく一つの社会参加の意思を表すものとして生まれたのだろうと考えるが、そもそも社会に参加するということはある意味で他者への妥協なのである。これを繰り返してきた結果が今のSNSなのではないかと感じる。

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