弱い侵略者 強すぎる人間

デッドデッドデーモンズデデデデストラクションを観て。

この作品はSFなのだろうか。侵略者が地球を攻めてくるのだが、どうも普通のSFと毛色が違う。往々にして、SFに登場する人類の敵とか、侵略者というものは、人間が手に負えないほどに強い。そしてなんとかして人間が知恵を凝らしてその侵略者を倒す、という構成が一般的である。大抵のアニメ、特に少年漫画のようなものは、全てこの構成といっても過言ではない。最初はそんなに強くなかった主人公が、強大な敵と遭遇する度に新たな技を習得したりなんかして、最終的には敵を打倒していく。めでたしめでたし。桃太郎は猿ときじと犬を仲間にして、鬼を倒しました。ルフィは麦藁の一味を率いて四皇を倒しました。めでたしめでたし。

今回このアニメ映画を観て、自分がこういった構成の少年漫画的なものに辟易してきていることを感じた。この作品は勝手なことを言わせてもらえばアンチジャンプなのではないだろうか。あるいはアンチマーベルであり、アンチスターウォーズである。

強大な悪、強大な敵を倒すといえば聞こえが良い。人間でない何か、侵略者や宇宙人を倒すのだから、罪悪感を感じずに人間としての誇りを感じることができる。しかし人間にとって人間自身より悪であるものがあるのだろうか。人間にとって人間自身より敵であるものがあるのだろうか。

人間の感覚は相対的なものだという。人間の欲は、自らの絶対的な位置で満たされるのではないのではないだろうか。誰よりも名誉がある役職についたからといって誰よりも幸せな訳ではない、というのはそういうことだ。なぜいじめが行われるのか。それはどんなにくだらないことであったとしても、どんなに狭いコミュニティの中であったとしても、自分の言うことを聞く、自分に口答えをしない弱いものが目の前にいさえすれば、自分の相対的な優位が感じられ、満足することができる。人間とはそういった生き物であり、そういった醜さを隠すために物語には強大な敵が仮構されてきたのではないだろうか。

いくら大志をかかげたり、仮想敵を設定したりしたとしても、私たちが実際に行っているのは醜い小競り合いにすぎないのかもしれない。

大衆が消費する物語というのは、社会が消費する物語であり、社会が消費する物語というのは、社会の歪を覆い隠してくれるものほど受け入れられるのだろうか。しかし一方で、そんな歪を暴いてくれるものも、当の物語であることがある。さらに言えば、社会の歪を暴くといったことでさえ、自らの歪を覆い隠すための隠れ蓑のようなものであるのかもしれないのである。


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