持続可能な社会と、持続不可能な私

「持続可能な社会」、という訳語の日本語に違和感を感じる、という話もあるが、まあそれはさておき、持続可能な社会、という言葉に若干の空々しさを感じるのは何故だろうか。

持続可能、というのを文字通り受け取れば現状と同じ生活を保持できる、ということになると思うが、一方で世の中では持続可能な成長、というようなものを思い描いていることも多い。

しかし、成長し続けるなんてことは普通に考えてあり得ないだろう。今までしてきたことというのは、結局のところ、成長し続けていると思ったら有限の資源を食い尽くしてきた犠牲の上に成り立っていた成長だったという話である。

地球には太陽などから日々エネルギーが入ってくるため、その分のエネルギーとひっくるめて利用可能なエネルギーの収支がマイナスにならないようにしよう、という話だ。

この話自体はよく分かるけれど、やっぱりなんとなくどうしても空々しい。なんでだろう。

結局のところ持続可能な社会を目指す、といっても、私という個体自体が持続可能でないからだろうか。気が狂うほど小さく、短く、制限された私の生の中で、持続可能、という響きがあまりにも形を結ばないのかもしれない。私にとっては、社会のニュースがどうのこうの、ということよりも、恋人の家に行くのに降っている雨を防ぐ傘がないということが、切実なのだという井上陽水の「傘がない」を思い出す。

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