介護を受けて生き抜く覚悟はあるか?

関係ない!からの覚醒

介護という文字だけで敬遠する方は多いでしょう。
表題を見ただけで、自分には関係ないとスルーする人も多いでしょう。

でも、
世の中には「介護が必要な人」が存在する
だから、
「介護をする人」が必要だ。
そう理解はしていると思います。

理解した上で、スルーする人は、
→私は若い
→私は体だけは頑丈だ
→私は太く短く生きる
→私は介護保険料払っているから、国がなんとかしてくれる
→私は介護なんて先の話を考える余裕はない

ので、
「私が今、考えることではない」
そう判断するのでしょう?

でも、その考える時は、
本当に今じゃないんでしょうか?

恐ろしいことに、
今、介護サービスを利用されている、利用者、家族、
介護サービスを提供する職員からも、
「私が今、考えることではない」
あるいは、
「考えたくない」 「考える余裕がない」

そんな声が聞かれます。

後ほど、もっと衝撃的な言葉が出てきますが、
介護を受けている方でさえ、
「自分事」として考えていない方がいる。

しかし、この先、
そんな他人事と思いながら生きてきた人が、
介護を必要とする時が来る。

そんな人が爆発的に増える。

そして、
どうしようもないくらい、
そんな人を、
介護する人は減っていくでしょう。

何故なら、他人事だから。

私は年金の問題と似ていると感じています。
なんだか、政治ジャーナリストみたいなことを言っていますが、
「他人事」にするのはとても危険だと思います。

自分の未来を、何も考えずにいるということは、
自分が、どんな未来を迎えても、
「文句は言わない」
「どんな状況も受け入れる」
覚悟が必要だと思っています。

そんなことは聞いてないよ!とは言えないということです。

厳しい現実です。
でも、です。

私がそうなんですが、
その日をクリアーするのが精一杯という人にとって、
余裕ない!誰かに全部任せたい!
そう身体が心が叫んでしまう!

実際、火事と一緒で、
自分の身に火の粉が降りかかる、
ギリギリまで関わりたくない、
スルーしたい。

遠くの方で消防車のサイレンが鳴っていても、
誰かが助けを叫んでいるか、
想像すらしない。

さて、私の番です。

私は介護の仕事に携わりながら、
遠く離れた親が、介護が必要となっても、
年に会うのが、1度か2度。
それも、1泊2日がリミット。
滞在時間より移動時間の方が長い始末。
さらに、滞在時間中も仕事関連の電話は鳴り止まない。

「休み?親の介護?知らんよ!仕事なめてんの?」

そう上司に言われ、
私も「すいません」
そう言うのが当然と思うほど、
追い込まれていました。

正直、親の介護している余裕はない!

ずっと私の頭の中で、それがぐるぐる回っています。

それが本末転倒、非道だとしても、
利用者が、子供が来てくれないと寂しそうな顔をしているのを見ても、
ぐるぐる、ぐるぐる。

そして、
とうとう私の番が来ました。

私の母親が脳梗塞で倒れ、
病院で、
「退院しても、今後、歩くことはできないでしょう」
そう言われた時、
私にとって、介護は対岸の火事ではなくなりました。

正確には、
介護は死と同じく、自分にも訪れる」と受容しました。

薄々わかっている、ような気でいました。
見ているようで、見ないようにしていました。

「介護に携わっている」

そんなハリボテは弾け飛んでいきました。


利用者が、どんどん歩けなくなっていく。
食べられなくなっていく。
トイレに行けなくなる。
わがままになっていく。
優しく穏やかなだった方が、鬼の形相で殴りかかってくる。
そんな日々も、仕事だと割り切って、
他人事だと思うようにしていました。

自分には関係ない。

でも、自分の母が、
ヘルパーさんに押される車椅子に座っている姿を見て、
死を受容するように、自分ごととして、介護を受容しました。

私の母親は、
人のお世話をするのが好きで、
逆に人の世話にはならないという気質。
当然、子供の世話にはならない、
私には自由に好きなように生きなさいと言っていました。

そんな母は、今では毎日介護サービスを受けています。

私もいずれ介護サービスのお世話になる。
火の粉がちりちりと、私に向かって舞いだし、
屋台骨を焦がし出したのです。

こんなはずじゃなかった!深い悔恨

介護に理解も関心もない若者も、
いずれ年を重ね、
いずれ介護が必要となる。

こう、昔話の様に教訓になる、
未来に繋がる話ができたら良いのに。

現実はブラックジョーク。

「自分でトイレに行けなくなったら、死にたいわ」
「自分が認知症になったら、死にたいわ」

若者の発言ではありません。
理解、関心がない、
私が日々、接している人達。

今、介護を受けている人達のものです。

◇ある日のケアのワンシーン◇

私が排泄介助のケアで、ご本人宅を訪問すると、
ご本人とお孫さんがいらっしゃる。
ご挨拶しようとした瞬間、
空気が張り詰めているのを察知し、
咄嗟に視線だけを動かして、二人の様子を交互に見る。

ご本人は憮然としてベッド上に黙って座っている。
お孫さんは?
奥のキッチンに立っていた。
いつもの紺色エプロンをして、背中を向けて、洗い物をしている。
いや、何もしていない。
ただ立ち尽くしているだけ。
背中越しでも、本人と何かあったんだろうとは察せられる。

ご本人にご挨拶すると、
先ほどの表情を崩して、いつもの笑顔を返してくれる。

スルーするな!私のアラートが鳴っている。
「お孫さんと、どうかされたんですか?」
直球勝負!

すると刺すような視線をキッチンに向けながら、憮然とした表情に戻り、

「何にもしないのよ、この子。私がこんな状態になっているのに。
トイレ行きたいと言っても、できないって言って。
やりたくないなら来なきゃ良いのよ。人様に頼ってばかり。
身内に捨てられたわ。ああ、死にたい」

この調子でご自分の娘さんとは絶縁状態。

優しいお孫さんが時間を作って来てくれて、
最初は感謝していた。

足腰の調子が悪くなり、
自分でトイレに行くことが困難になってきてから、
関係が悪化する。

介護職員にも日頃から、
「自分でトイレに行けなくなったら、死んだほうがマシ」
そう言って、トイレ介助を拒否していた。

そして、夜中にトイレに行こうとして、転倒、骨折。

退院後、歩けなくなり、
オムツをつけて、ベッド上で排泄介助を受けている。

それからは、
「ああ、死にたい」
「ああ、身内に捨てられた」
呪いの言葉を、優しいお孫さんにぶつけるようになった。

こんなはずじゃなかった。

元気な時は、優しく穏やかな方だったと、
娘さんが話していた。
70歳の時、旦那様を亡くしてから、
91歳まで、一人で生きてきた自信があり、
子供を立派に育て上げた自負がある。

だから、そんな「自分が介護を受けて生きていく」姿は想像できなかった

介護されている、その現実を受け入れられない人は多い。
自分は介護を受けるような人間じゃないという。

介護を受ける人間=終わった人間
そういう認識の方がいる。
悲しいことに、
家族や介護職員にも、
そういう認識の人がいる。

こういう認識の人は、
極度に人の目を恐れている
自分が 家族が
終わった人間と思われていないかと。

◇そんな認識の方のケアにて◇

その方は介護を受けていることをひた隠しにしている。

「家族は仕方ないが、ご近所や親戚には絶対に知られたくない」

本人宅に電話が掛かってきて、ご本人が出られない、
家族は出掛けている時は、代わりに出る。

でもヘルパーだとは決して言ってはいけない。

この場合、一番困るのは、
相手が名乗ったとしても、
本人と、どんな関係性の人か分からない時。
なぜなら、私が身分を明かせないのに、他人様の電話に出るから。

なんて言えば良いんだ?
相手が誰かわからないのに、下手なことは言えない。
親戚の者?隣に住んでる者?
相手に「お宅はどちら様ですか?」と聞かれたらジ・エンド。

・・・切るか?
えっ?投資に興味?
勧誘電話でホッとする。
異常な状況。

福祉パイの取り合い

こういう方のケアでも、
「(介護)させて頂いてるんだから、有難いと思いなさい」
そんなことを言う人がいます。

私は口には決して出しませんが、
ご縁がなかったと撤退すべきだと考えています。

何故なら、
我儘言ったもん勝ちにしてはいけないと思うからです。

我儘?気持ちはわかるんだけど。
そういう問題ではないのです。

◇学校のあるクラスにて◇

声も態度も大きな生徒がクラス全体に影響して、
言い出せない多数の生徒を封殺する。
でも、教育を受ける権利は、皆、平等にあるはず。

先生は一人
どうする?

「はい、静かにして」

しかし、声の大きい生徒は、気にいらない。
家で嫌なことがあったんだ。
「なんで聞いてくれないんだよ!」
先生に相手にして貰ったと、ますますエキサイト。

声の小さな生徒は、ずっとトイレを我慢していました。
話が終わるのをずっと待っていました。

「はい、静かにして」
静かにすべきは、声の大きな生徒だけなのに。

声の小さな生徒は、足が濡れるのを感じて、
泣き出してしまいました。

今でも夢に出てくるくらい、後悔しています。
声の大きな生徒は私です。

声の小さな生徒に謝って、
その後、仲良くなった今でも、
そのシーンは夢に出てきます。

私の戒めの言葉

「調子に乗るなよ、お前」


大変なんだ!なんでやってくれないんだ!
大人になっても、自分のことしか考えられない人って結構多いのです。
いや、これは大人の傲慢で、
大人だからこそ、多いのかも。

人より大変な思いをしてきたのかも知れません。
人より頑張ってきたのかも知れません。

でもそれが、
同じ土俵に乗った他の人の権利を侵害する免罪符にはなりません。

もちろん、
「私はいいから、他の方をみてあげてね」と仰る方もいます。
自分に余裕がなくても、他の方も大変だろうからと。

はい!分かりました!お優しい方、必ず戻ってきます!
トリアージしているのであれば、そうでしょう。
(※介護でも、緊急事態で優先順位をつける場合もあります)

でも、それだって、全体を見た上で、
可能な限り、「公平に」という考えのもと、
判断があると思います。

時間とマンパワーには限りがある

その限りある状況の中で、可能な限り、公平に。

その方の「状態によって」、必要なケアをする訳で、
その方や家族の「要望」のまま、ケアをする訳ではないということです。

このあたりは、本当に難しい

前述の
「(介護)させて頂いてるんだから、有難いと思いなさい」
そういう認識のベテランの方は驚くほど多く、
当然、その様に後輩にも指導する。

本人、家族も、
「金払ってるんだから、言われた通りやれよ」
面と向かって言われたこともあります。
介護をされている方には、あるあるかも知れませんね。

今「カスハラ」という言葉がありますが、
そんな言葉がなくても、
下品な行為であることは明白だろうと思うんですが。

働いている方の中にも、ヤバい人がいます。

私が介護の仕事を始めて、違和感どころか、
違うだろう!って思っている言葉。

介護の仕事をされている方の愚痴り合いながら発せられる、
「お手伝いさんじゃないんだから」です。

じゃあ、お手伝いさんならやれってこと?
というか、お手伝いさんを下にみてるよね?

〇〇だから、やって当然という響き、
嫌だなぁー心底思っています。

すいません。話が外れてしまいました。
が、言い足りないので、
また別の機会に申し上げます。

話を戻します。
本人、家族が、どれだけ身体が辛いから、
これを、代わりにやってと言われても、
本人ができると判断すれば、
本人、家族にいくら罵られても、
他に頼むから、もう来なくていいよと脅されても、
やりません。いたしません。

それは決して、意地悪でも、
追加でお金が貰える訳でもないから(実際言われたことがあります)
でもなく、
前述の「公平」の問題で、
そう考えるからであります。

ただ、これを張り切って、表立って、くっきりハッキリすると、
仕事が無くなっていきます。
なんなら、評判が悪くなって、
尾ひれがついて、あそこは問題のある会社と判断されてしまいます。

だから、営利組織に所属する、心ある人達は苦しみます。
上から、
「大人になれよ。会社から、お客様からお金を頂いているんだから」
そう、訳の分からない叱責を喰らいます。

だから、そういう利用者がいなくなっても、
ビクともしない売上を上げるしか、正しいことはできません。

バリバリの営利ブラック会社からの、
福祉業転身組の私には、まだまだ甘かったと思うことがあります。

ひとつに、介護保険制度利用は、挙手制です。
どんなに困窮していても、手を挙げなければ誰も助けてくれません。
制度自体を知らない人もいるでしょう。
役所や、介護施設にポスターを貼っていても、
本当に困っている人、
家から動けない人達が見られるのかどうか。

また、話が外れてしまいました。
この問題についても別に機会を設けたいと思っております。


ここまで、お読み頂いて、本当にありがとうございます。

恥ずかしながら、会社内部の問題は、
会社内部の人間だけでは解決できない。

そう気づいたのは、最近の話であります。
本当に恥ずかしい。

せめて、自分の周りの人たちだけでもと、
頑張っているつもりで、何も変えられなかった。

ただ諦めるつもりはありません。
もっと知見の広い方に知っていただくこと。
それがありがたい。

この場を提供して頂いているnoteの方達にも感謝いたします。

今後も、発信していきたいと思いますので、
お読みいただけると幸いです。

コメントいただけると嬉しいです。

どうぞよろしくお願い申し上げます。


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