書かなくても困らない時代に、なんで書道を習う?
教室を始めるときに、正直すごい悩みました。
私は、書くことが好き。
文字が好き。
字を書いている時間がとても好き。
だから一緒にやろうよ!
でもそれって、押し付けじゃないの?と思うことがゼロではありません。
人間の長い歴史の中で、「手で書く」ということは脈々と継がれてきたこと。
何かを伝えるには・何かを文章として残すには手で文字を書かなきゃいけないのが普通だったんです。
ところが現代、もう、書く機会の少ないことといったら…!
お友達の間柄、お仕事の間柄の人でも、「あれ?そういえばこの人の直筆って見たことないな」という経験、きっとどなたにもあるはずです。私も、ある。
お手紙を書く機会は減り、連絡はスマホでポチポチ文字を打つ。
何かの拍子で「書道をやっている」と言えば、「最近めっきり文字を書くことがないので、漢字なんてごそっと忘れちゃってるよ…」なんて話もよく聞きます。
私はこれを「究極、書かなくてもなんとかなる時代」と言っていて、そうなると、別に字がきれいじゃなくたって・上手くなくたって困らない、と素直に思います。
だから「字がきれいじゃないと困りますよ」なんて言えない。困らない。
字が下手だなー、苦手だなーと自分で思うなら、PCで打って印刷すればいいし(なんなら履歴書は手書き必須なんて、もう今ほぼ無いんじゃない?)、話して音源残すとか他の手段だってたくさんある。
ビジネスシーンでプレゼンが手書きなんてあり得ないし。わかりやすいスライド作れてなんぼですよね。
子どもたちだってそう。
流石に学生時代は字を書くこともまだまだ多いけれども、タブレットドリルはもう当たり前ですし、我が子たちを見ていても「書く量」「書かなきゃいけない機会」ってこの20〜30年で随分減ってるよね、と率直に感じます。
英語が話せたほうが将来活動の範囲が広がるだろうし、プログラミング言語が理解できて使いこなせたほうが、今後AIと仲良く共存していけるでしょう。
何が言いたいかというと、時代によって必要なことって移り変わるんだと思うんです。
お習字、そろばん、ピアノ、が女の子のお稽古の定番だった平成初期。
今だと…、英語、プログラミング、水泳??(個人的所感)
自分が書道をやっているからと言ってポジショニングトークはあまりしたくなくて、時代背景を鑑みた上で、「じゃあ、令和の今の時代、書道教室に通う意味って?」なんなんでしょうか?
私もまだ、完璧な答えは見つかっていません。
暫定的な答えとしては、
①もちろん、字が上手くなること
音楽が好き、スポーツが好き、と同じような感じで
字を書くのが好き、というのはひとつの立派な「好きなこと」だと思います。
好きだから(あるいは苦手意識があったとしても)、もっと上手くなりたい、もっと上手に書けるようになりたい。
そんな気持ちをわたしはしっかり応援したいと思います。
それから、
②なにごとにも通じる、集中力と試行錯誤力。
これは特にお子さんたちですね。
書道では、一文字一文字じっくりとお手本を見ながら書くので、かなりの集中力を必要とします。
そして、自分の書いたものを見て、「ああでもない、こうでもない」「ここがこうだったから次はこうしよう」「こうしたらうまく書けるんちゃうかな?」と試行錯誤する。
そういった集中力や試行錯誤する力が「書く過程」で養われる、そう思っています。
わたしはお教室でよく「〇〇ちゃん的にはどうだった?」と添削に来た子たちに問いかけています。
そうすると「ここがいい感じにできたと思う」「もうちょっとこうすれば良くなると思う」とか「この2枚やったら、こっちがいいと思う」と、子どもたちは自分で書いたものをしっかりと自己評価できたりするんですよね。
みんな、自分の書きぶりをしっかりと見れています。
文字の形、文字の大きさ、線の様子、線の入りや筆を離すときの処理の仕方などなど…。
観察して、やってみて、違うなと思ったら軌道修正する、が自然にできるのが書道の良いところです。
そして、
③書く過程そのものが心を整える
②を大人向けの言い方にしたらこうなるでしょうか?
練習して上手くなる、これはもちろん大事なことだと理解した上で、
文字を書いている行為そのものが、心を落ち着かせて、集中して、その結果整う、そういう力があると私は感じています。
むしろ、今のこの令和の時代、物事がものすごい速さで移り変わっていく時代において、子どもも大人もどうがんばっても情報過多になります。
もっとシンプルに、心のざわめきを取っ払って、集中して、心が整う。
そしてそれが年齢関係なく、子どもも大人も年齢を重ねても、できる。
そういうところに、何か大きな価値があるのではないかと仮説を立てています。
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