【往復書簡】ギリギリ怒られよう。

上の壇珠さんの記事へのお返事です。

始めてさほど経たないこの往復書簡ですが、ここ数回で、我々以外にこのやりとりを楽しんでくれているお方がいるのかどうかわからないという気分になってきています。

本当ですね!まったく同じ気持ちです!もう、ついてこれない人は置いていきましょう!地球は丸いから、我々がかっ飛ばすほどにまたすぐに出会えるはずです!!我ら、地球の鬼ヤンマ!!この前、読者の方から「毎回楽しく拝読していますが、いいねボタンを押すと周囲の人に『おまえはこんなのが好きなのか』と狂人扱いされるから押せない」というお声をいただきました。私たちってなんなんでしょう。クレヨンしんちゃんとか、おぼっちゃまくんとか、親がこどもに見せたくないテレビ番組みたいなものだと思いました。早いとこ、国民的人気を獲得しましょう!!市民権を、得ましょう!!

壇珠さんのお言葉には、もう、毎回全文共感&敬服しています。こんなに言葉をクリティカルに扱う霊長類をはじめて見ました。読むたびに顎関節が外れています。壇珠さんの存在は「ピッチャーより強肩なキャッチャー」と言った感じで、私が自身最速150キロの球を投げても「まだまだこんなもんじゃねえだろ!!」と、毎回200キロの豪速球で返球をしてくれます。そればかりか、私がどれだけ暴投をしても「俺が全部受け止める」と、時にはピッコロ大魔王のように腕を50メートルくらい伸ばして私の悪送球をキャッチしてくれます。もはや人間ではないので、私も人間でいる限り勝てません。結果、バケモノになるしかない。このやりとりが、本当に、最高です。

あくまでわたしの中のイメージですが、行くべきか行かぬべきかを問うてみたときに、富樫源次で考えた場合は無条件にドスを持って「喧嘩殺法じゃあ!!」、イーサン・ハントはインポッシブルなミッション中なのに弾を避けながらウインク、ジェームズ・ボンドは言葉で「やれ」と発破をかける代わりになぜかベッドで汗まみれの有無を言わさぬフィジカルな説得、孫悟空は「おめえ強くなりたくねえのか?」のひと言、ルパン三世は「あんたの中の不二子ちゃんを泣かせるわけにいかねえだろ~?」、ガガ姉さんは全身に生肉をまとってこちらを見て質問をスルー、叶恭子さんはサングラス越しに目が合うだけですがメドゥーサと目が合ったのと同じ効果があります。そういうわけでわたしも、「は、はい」となります。

最高です!!全部最高です!!やばいです!!とりわけ、いまの私には「おめえ強くなりたくねえのか?」が一番刺さりました。はい、自分、強くなりたいっす。今日は東京で出版記念ライブがあったのですが、質疑応答の時間に「印税が手元に入ってきたら、一番最初にやりたいことはなんですか?」と聞かれました。私は、咄嗟に「脱税で刑務所に入る覚悟をすることです」と答えました。これだけだといろいろ語弊があるのですが、脱税をしたいと言うことでは断じてなく、お金の出し入れに慣れていないあまり、無意識に法律を侵してしまいかねない恐怖に震えている、ということが言いたかったのです。それくらい私はチキン野郎です。常に最悪の覚悟をしないと、お金を受け取ることさえできません。チキンな私に悟空の言葉は刺さりました。

だいぶ昔の話になりますが、お笑い芸人の江頭2:50さんとモーニング娘。の矢口真里さんが、同時期に不祥事を起こしたことがありました。えがちゃんは公衆の面前で裸になって警察に連行。矢口真里さんは不倫の現場を暴露されて社会的に抹殺。これらが各種メディアで取り沙汰されていました。この時、世間の反応が真逆だったことが物凄い印象的でした。アイドルの矢口真里さんは、一般人に限らずファンからも「がっかりした」「そんなことするひととは思わなかった」などと、冷や水をぶっかけられていました。それに対して、えがちゃんは「あいつ、またやりやがった!」とか「さすがえがちゃんだな!」とか、悪いことをしたはずなのにみんなが喜んでいるのです。片方はファンが離れているのに、もう片方は「ファンが、もっとファンになっている」のです。この現象を見たとき、けいご坊や(私)は悟りました。ああ、そうか。俺はえがちゃん的な生き方をする必要があるのだなあ、と。

何が言いたいのかというと、仮に脱税がバレて牢獄にぶち込まれたとしても、みなさまから「坂爪なら仕方ないか」と思ってもらえる程度には、突き抜けた生き方をする必要があると言うことです。誤解されると困るのですが、決して「俺は脱税をするぜ」と言いたいわけではありません。ただ、何かしらの事情で牢獄にぶち込まれたとしても、周囲から「あいつなら仕方ない」と、悲しまれたり同情されたり下に見られたりする以上に「笑いのネタとしてお楽しみいただける」程度には、器のでかい人間になりたいと言うことです。伝わっているでしょうか・・・不安になってきた・・・このままだと俺の社会的信頼が危うい・・・でもそんなもの最初からないか・・・!!

わたしだけなのかもしれませんが、恋するのって、究極のところを言い換えると「相手に飽きてしまうか、もしくは無償の愛に発展させたい」という、どちらの道を行くのかを見てみたい感覚だという気がします。いちばん隠しておきたいところを見せないと、その相手を通してほんとうに見たかったものが見られない気がします。

本当にその通りですね!!ビビリな私に響きます!!私には、人間関係って「いかに諦めてもらうか」が肝だと思っている節があります。相手に見捨てられないようにいい人を演じるのではなく、自分のダメな部分を速攻で出して「自分にはこういう部分があります」と、なる早で公開する。自分のダメな部分を晒す瞬間は恐怖以外のなにものでもないのですが、それが許された瞬間の爽快感はたまらんです。「え、いいの!?」って感じです。自分の良い部分が愛されているうちはまだまだ。自分のダメな部分が愛されてこそ本物だろうと、自分をけしかけます。良い部分を見せる以上に「ダメな部分」「汚い部分」「ずるい部分」を、早めに出したいと思うのです。これって、諦めてもらうことの必要性を、体が覚えているからなのかもしれません。

両親との関係性に、それは顕著に現れました。高校時代、私は退屈すぎて高校をやめたいと親に言いました。親は「高校くらい出ろ」と言いました。私は「いやだ」と言います。親は「普通、高校くらい出るだろ」と言います。私は「普通ってなによ。そんなもの、おしつけんといて!」となって、両者の溝は深まります。しかし、反抗期を続けまくった結果、最終的に親は「こいつには何を言っても無駄だ」となり、私を諦めてくれました。そして、私を諦めた親は「もう、あんたが元気でいてくれたらあとはなんでもいいよ」というところに着地をしました。すると、私も反抗する対象を失ったので「それだったら、できます!」となり、親との関係性は良好になりました。

諦めてもらうためには、自分を全出しする必要があります。中途半端な出し方じゃ、相手も人間なので負けます。まず出す。自分が出す。全部出す。全部出せば全部うまくいくとは限らないけど、うまくいった時の「はまったー!」「ゆるされたー!」「愛されてしまったー!」感は、格別です。よく、自分には本音を出せる相手がいないなどと言う人と出会うのですが、私は問いたい。何を選んでいるのだと。何を待っているのだと。まず、自分からだろと。自分が本音を出せば、100人にひとりくらいは「お」となってくれるはず。それを、この人には出せそうだなと思えるまでは出さないで、それで「本音を話せる相手がいない」だなんて、お前はどこまで他人の責任にするのだと。自分の勇気の欠如を、他人の責任にしちゃあいけないぞ、と。

圭吾さんは、誰かの怒りに嬉しくなることってありますか。

あります!!めっちゃあります!!私は、人に「嫌いな食べ物はなんですか?」って聞くのが好きです。なぜなら、好きな理由は「おいしいから」というそれだけの場合が多いのですが、嫌いな理由はそれこそ十人十色で個性的だからです。ある人は、キャベツが嫌いだと言いました。理由を尋ねると「自分が虫みたいな気持ちになるから」と答えました。ある人は、らっきょうが嫌いだと言いました。理由を尋ねると「存在意義を感じないから」と答えました。ある人は、ゴーヤが嫌いだと言いました。理由を尋ねると「カエルみたいだから」と言いました。普段はおしとやかに生きている感じの女性が、これだけ露骨に『嫌い』を表明している姿を見ると、なにかこう、萌えるのです。おお、お前にもそういう部分があったのだな、と。いいぞ!いいぞ!ってなるのです。誰かの嫌いを耳にすると嬉しくなってしまうのです。

悔しさと言う感情も、大好きです。今日の出版記念ライブで、男性のお客さんが「正直、あなたの本を読んで悔しいと思いました」と言いました。私は「お、いいぞ!いいぞ!どんどん悔しがってください!」と答えました。俺を恨めとさえ思いました。俺を恨んで、俺を憎んで、俺を妬んで、そして、這い上がってきてください。そんなことを思ってしまったのです。悔しいってことは、自分にもできるってことだと思います。自分にもできることが、誰かにやられてしまったことが悔しいのだと思います。そのとき、自分の中にいる暴君が顔を出します。暴君は「俺に代われ」と言います。舞台の上の人間をひきずりおろして「そこに立つべき人間は俺だ」と、ふてぶてしくも言えてしまう暴君な部分を、誰もが抱え持っているのだと思います。その部分を出してこそ、人間の本懐だと思います。悔しさは「やれ」の合図です。

壇珠さん、聞いてください!!本を出版してから、面白い体験をいくつかしました!!まず、サインを求められる機会が爆発的に増えました。私はそれっぽいサインを書けないので、漢字で丁寧に『坂爪圭吾』と書きます。そこに一言添えることが多いのですが、この一言、センスが問われていると思います。最初は「傷つく前に傷つくな」とか「永遠にそのままで行け」とか、それっぽいエールの言葉を書いていたのですが、段々そんな自分に嫌気が刺してきました。何を偉そうに、と、自分が自分に苛立ってしまったのです。

そこで、今日は「俺は元気です」と書きました。書かれた方は「え?」みたいな表情を浮かべていたのですが、そんなこと知ったこっちゃありません。あなたのことは正直なんにも知らないけれど、少なくとも俺は元気だぞ、と。そんな言葉を本に書いたら、なんだかものすごい楽しかったのです。これはいいぞと気を良くした私は、次に「僕も好きです!!」と書きました。書かれた方は「突然なあに?」みたいな表情を浮かべていたのですが、そんなこと知ったこっちゃありません。ただ、いつの日か、書かれた相手も気づく日が来るでしょう。ああ、これか、と。ああ、この感覚か、と・・・!!

あともうひとつ!!本を手売りする機会に恵まれたのですが、お釣りをもっていなかったことと、定価で売ることの退屈さを感じた結果「言い値でいいです」というやり方を、今回採用しました。一応、定価は1500円です。ただ、お金がない人もいると思うから、無理のない範囲で大丈夫だし、なんなら物々交換でもいいですというやり方を選びました。そしたらビックリ!!驚いたことに、ほとんどの人が2000円で買ってくれたのです!!なんということでしょう!!更に素敵だなと思ったのは、本を買う列が発生したのですが、二冊を4000円で買おうとした女性に「その値段なら三冊行けます」と言ったところ、その女性が「それなら、私の後ろにいる女性に一冊プレゼントします!」などとおっしゃるではありませんか!!なんということでしょう!!わかりますか、これ!!突然プレゼントをされた後方の女性も「え、いいの!?」みたいな顔をします。贈る側も「そりゃ、もちろん!!受け取ってください!!」と笑顔。受け取る側も「あ、ありがとうございます!!」と笑顔。それを見ている私も笑顔。おお、こりゃいいぞ、いいぞ、どんどんやってくれ、と、普通じゃない流れに愉しさを覚えました。

多分、私は予定調和が嫌いなのだと思います。雑な言い方ではありますが「俺は、ざっくり与えて、ざっくりもらいたいんだ」というのが本音です。だから監獄にぶち込まれるリスクも高いのですが、やっぱり取引って退屈だなあと思います。こちらから率先して取引を放棄すると、世の中はあげる・もらうの関係性に引き戻されます。値段がいくらだからそのお金を出すという形式を超えて、ただ自分が出したいと思ったから出す。そこには、金額だけではないそのひとの心意気を強く感じ取ることができます。この感覚が、とてもうれしいです。最初、言い値で売りますと言ったときは、周囲の人から「こいつの頭は大丈夫か」「何を馬鹿な真似を」「血迷ったか」みたいなまなざしで見られました。でも、実際にやってみると、こんな素敵な展開になったのです。お金がないけど欲しいと言う人に、贈ることもできました。

新しいことをやると批判されるリスクもあるのですが、そんな時は「最悪、怒られるだけ」と、自分に言い聞かせます。ホームをレスしていた時、生まれてはじめてパブリックな場所にテントを張って眠るという体験をしました。最初は「警備員にバレたら殺される」と気が気でなかったのですが、冷静に考えると「最悪、怒られるだけだ」ということがわかり、別に一発逮捕される訳ではないのだと言うところに安寧を覚えました。この「最悪、怒られるだけ」というのは、私の中の安心ポイントです。怒られたら謝ればいいのであり、別になにかを諦める理由にはならない。だから、やっちゃえ。合言葉は「ギリギリ怒られよう」くらいが、ちょうどいいのかもしれません。

わたしも自分をこんなにも壮大な宇宙の一要素だと思うと、自分が漂っていて、ただただあるべきように翻弄されている感じがして、なんでもよくなって、なんでも大丈夫に思えてきます。すると矛盾するようですが「ああ、ならばただ自分を大切にしよう」という感覚になります。我らはみな不思議な存在ですね。圭吾さんはどんなときにそんな気分になりますか。

海にテントを張って暮らしていた時、毎日、夕日を眺めていました。おかしな言い方になるのですが、自分にはなにもないと感じているときほど、夕日の美しさが身に沁みてくるのです。傲慢な言い方になりますが「いま、俺ほどこの夕日を感動できる人間はいない」みたいな気持ちになったことを思い出します。持てるものにも、持たざるものにも、天地は平等に恵みを注ぎ続けてくれている。そして、その恵みは「持たざる時に、最も深く身に沁みる」という体験を通じて、私に「何が起きても大丈夫」という安心を与えました。なにもかもなくしたとしても、また同じ夕日を見ることができる。そのことを思った時、涙が出そうになるほどの『大丈夫』を感じ取りました。

壇珠さんは、小さな頃はいたずら好きなこどもでしたか??今日、私の本を読んでくれた方が「けいごさんの言葉を読むと、昔の自分を思い出します。いまよりも無邪気で、いまよりも活発で、いまよりも無謀だった自分が蘇ってきて、思わず走り出したい気持ちになるのです」とおっしゃってくださいました。壇珠さんの言葉にも、同じ力を感じます。新しいなにかを付け加えるというより、忘れていたなにかを『思い出す』『取り戻す』『引き戻す』感覚を、猛烈に覚えます。私が壇珠さんを好きな理由は本当にたっくさんあるのですが、そのひとつが「性別を超えて、年齢を超えて、国境を超えて、一緒に悪ふざけをできる」ことです。世間的な善悪のジャッジを軽々と飛び越えて、全部、楽しかった思い出に変える魔法。キラキラした記憶に変える魔法。それが、悪ふざけの魔法だと思います!!ありがとうございます!!

バッチ来い人類!うおおおおお〜!