【往復書簡】死ねる歓び。

上の壇珠さんの記事へのお返事です。

おはようございます!!ようやく、ようやく、ようやく心の底から「おはようございます」と言える瞬間が来ました!!長かったです!!今回の夜は長かったです!!コロナ騒動で祖国ジャパンに緊急事態宣言が出たのが四月。それから三ヶ月の間、私はアスファルトを舐めるような低空飛行を続けて参りました。移動もできない。人とも会えない。ライブもできない。これまでは毎週のように音楽活動をやっていたのですが、それもできない。腐ったトドのような瞳をしながら三ヶ月を過ごし、本日、私は「ライブしかない」という結論に着地をしました。ライブの代わりになるものをずっと探していたのですが、そんなものはありませんでした。だからもうお客さんが0だとしても、まったくお金にならずとも、ライブを毎週して行こうと思いました。

これはきっと私だけではないと思うのですが、自分がやるべきことをやれていないと感じる日々は、使っているエネルギーは少ないはずなのになんだかとっても疲れています。生きる気力が薄れていると言いますか、特段なにもしていないくせに、生きることに疲れているのです。しかし、自分のハートが「俺はこれをやるために生まれてきたのだ」と感じることをやれている日々は、肉体的にはハードな時間を過ごしたとしても、心地よい疲労感が残ります。私は、月並みな表現ではありますが「命を燃やしたかった」のです。不思議なもので、ライブを毎週やるぞと決めた途端、自分の中に確かな芯が生まれたことを感じました。本番の日程を決めると準備(練習)が必要になります。緊張もするし、恐怖心も、羞恥心も、面倒臭いことも、やらなければならないことも増えます。しかし、そのことがとても嬉しいのです。

私にとって、ライブとは「命と命のぶつかり合い」を意味します。命を癒すとか、命が和むとか、命が安らぐとかではなく、動的な意味でも静的な意味でも激しいぶつかり合いを通じて、お互いに覚醒し合うことを意味します。本気になった人間は自分でも信じられない力を発揮するようになり、命の花をぶわぁっと咲かせます。花を咲かせた人間を見ると、隣のひとは蕾のままだった自分に気づかされます。そして同時に、自分も花であり、自分も咲くことができることを思い知ります。いきなり暑苦しい話をしてしまって恐縮ですが、私は「本気に触れたい」のだと思いました。自分の本気に触れたいし、誰かの本気に触れていたい。そのために、自分は自分の本気を捧げられるものをずっと探していて、それはライブにしかないと思い至ったのです。この往復書簡もライブです。毎回壇珠さんが本気で投げてくれる球を、本気で打ち返せない日々が長く続きました。随分お待たせてしてしまって申し訳ありません。ようやく、ようやく、本気の勘所を取り戻した気持ちです!!

「赤兎馬を乗りこなす呂布感」で、笑いを堪えられず声が出ました!矛盾することなのですが、わたしはひどく情緒が安定しないのです。生まれたての子鹿が初めて立ってみたときのプルプルの脚のごとき安定感しかありません。さっきまで機嫌が良かったのに、ゲリラ豪雨が襲うがごとく不機嫌になることがあります。そしていきなり晴天に戻り、なのになんのやる気も起こらずすべての選択が間違いだと思え、心が厚い雲に覆われたりもします。「わが精神力はなんと軟弱なことか」と思います。

しかしおかしいのですが、同時にそんな自分への山のような不動の、「・・・これでいいのだ・・・」があって、それに自ら頼って甘えきっている状態です。その山壇珠さんの方は、いるかいないかわからないほど安定しているため、水平線のようです。ここでいつもぎゃーぎゃーと騒いで激しいところを見せたりしているのに、圭吾さんが山壇珠さんを見つけてくださったのだなと思うととても嬉しかったです。

壇珠さんの観察眼は本当にすごいなと思います。物事の本質を見つめる眼差しと言えばいいのでしょうか、壇珠さんの言葉からは「こうやって物事を眺めればいいのだよ」と優しく教え諭してくれる、あたたかな光を感じます。わたしたちひとりひとりはそれぞれ固有の心をもっていますが、そのさらに奥にある『共通の精神』みたいなものを、照らしてくれるあたたかさです。

突然ですが、壇珠さんは自分を『火』か『風』か『土』か『水』に例えると、どれだと思いますか??分けるのも変な話なのかもしれませんが、私は自分を「風に憧れている火」だと感じています。風にように軽やかに生きたいと思いながらも、火であることをやめられない。命を燃やせる対象を見つけていないと、自分の身を焼き滅ぼしてしまうような激しさを感じます。火は、正しい距離感を保てば道を照らしたり体を温めたりできるのですが、近づきすぎると火傷をします。これまで何回自分に火傷をしてきたか・・・火である自分は、燃えるように生きることでしか命の実感を感じることができないのですが、風や、土や、水の方々がどのような表現をするのかということに、最近とても興味があります。なんだか抽象的な質問ごめんなさい!!

火である自分をごまかそうとするときに、よくやる考え方が「日常のささやかな出来事を大事にしよう」というものです。それ自体はなにも悪くないのですが、ささやかなことばかりを大事にしていると、ゆっくりと自分の中にある火が消えていきます。本気で生きたがる命の声を無視して、天気がいいだけで幸せじゃないかとか、食べるものがあるだけ、寝る場所があるだけ、明日食うに困らない金があるだけで充分じゃないかと、本気で生きたいと願う自分の熱情に水をかけて、消化をしてしまうのです。この三ヶ月間が、まさにそんな感じでした。全然うまく言えないのですが、幸せなのだけれど、満ち足りてはいるのだけれど、本当の意味では生きていると言えないような不完全燃焼を感じていました。そんななか、今日、俺はライブをやりたいのだと思い至った時に「これで真っ当に苦しめる」と、嬉しくなったのです。

ライブは確かに楽しいのですが、楽しいよりも「苦しい」が優先をします。これ以上声を出したら死ぬなとか、これ以上汗をかいたら脱水症状でぶっ倒れるなとか、目眩がしたり視界が薄くなったり頭痛がしたり、割と死ぬギリギリのラインに立ちます。終わった後は放心状態になることが多く、楽しかったという達成感よりも「終わった・・・」という完全燃焼感だけが残ります。普通に考えたら苦しいだけなのですが、あの苦しさが恋しくなるのです。楽しいだけではないのに、またやりたい。あの瞬間にしか感じることのできない『生の実感』に、また触れたい。そんな風に思ってしまうのです。

わたしは、自分を枠にはめて自由を制限したり、役割や責任を与えたりせずに野放しにすると、逆に自分の存在価値に対峙して苦悩し始めるという、恐ろしい呪いのようなものを持っています。そうやって呪いと書けばなんかちょっとシリアスなものに見えてイイ感じがしますが、なんというかほんとうに世間で言われるように、「暇になるとろくなことを考えない」に当てはまってしまうのです。もしかしたら、圭吾さんにも共通した感覚があるのだろうかなどと勝手なことを考えました。

めちゃめちゃあります!!私は真面目系クズなので、無駄に時間だけ与えられると無駄なことに命を燃やします。主に「あらゆることを深刻に考え始める」ことからはじまり、自爆し、生きる気力を失い、将来を悲観し、気晴らしに日曜大工に手を出してみたりするものの長続きせず「俺はクソだ」と自己否定を重ね、読書などそれっぽいことをやることで「俺は時間を有効に使えている」と自分を慰めようとするもののうまくいかず、友達の数を数え始めてみるものの片手におさまり、ああ、ああ、ああ、みたいな言葉にならない呻きボイスを毎日のようにあげています。野放しにすると、ロクなことをしないというのは本当にそうです!!いま、ようやく、私は「自分に毎週ライブをさせる」という不自由を与えることができました。これは壇珠さんが「自分に毎日投稿をさせる」という不自由をプレゼントしていることと似ているのかもしれないなどと僭越ながら思いました!!僭越ですみません!!

自分を律してくれるものは、自分というよりは「自分に与えられた仕事」であるように思います。私は基本的に取り乱しているため、油断をしていると奇行めいたことを繰り返してしまいます。そして、ある程度繰り返したあとで「はっ!」となり、俺にはこれがあったじゃないかと思い出す形で(今回で言えば音楽活動を再開するという形で)我を取り戻します。余裕がある時はそんな自分も可愛らしいじゃねえかとなでなでしてあげたくなるのですが、余裕がない時は「こんな人間は死んだほうがいい」と思ったりします。自分みたいな人間は、ある程度忙しいほうがいいのだと思います!!やることがなにもない時より、やるべきことをやれている時のほうが、周囲の人々にも健全なやさしさを差し出すことができるような気がします!!押忍!!

あの時の、まるで焼け野原を見渡すように、自分と自分の未来を途方に暮れて眺めたときの気分を今も覚えています。あのころの自分には、社会とつながることがそれを癒やし和らげてくれて、自分が笑顔になるための良薬だったとは想像ができませんでした。地味に生きて死ぬことを受け入れ、静かに生きることを受け入れ、目立とうとする必要などないということを受け入れ、なんだかもう当時の自分が嫌がっていたことをみんな「しゃーないかあ」と思ってしまったら、当時の自分が喉から手が出るほどに欲しがっていたものが、自分の体温の暖かさに気がつくようにここにあったのがわかりました。久々にその気分をリアルに思い出した気がします。

言葉の全部を抜粋できないことが歯痒いのですが、言葉以上に、壇珠さんが言葉に込めてくださった気持ちがとてもありがたく、あたたかかったです。ありがとうございます!!距離を超えて、同じ星空を見上げながらそっと寄り添ってくれるような言葉の響きが、とても優しかったです。「自分の体温の暖かさに気がつくようにここにあった」という言葉を、とても美しく感じました。

低空飛行の三ヶ月という期間は、私に大事なことを教えてくれました。それは「弱っているときほど、祈りは純化する」ということです。うまく言葉にできないのですが、自分は強い人間だとか、自分はなんでもできる人間だと思うとき、人は祈ることをしなくなると思います。祈る必要はない、祈らなくても俺は俺の力でなんでもやれるのだと思う時、人は祈りを必要としません。しかし、行き過ぎた自信は慢心や思い上がりになるのも早く、停滞という時期を生きることを通じて「純粋な祈り」を取り戻せた気がします。歌を歌うことも、文章を書くことも、祈ることとは切っても切れない行為であると思います。祈りのない歌や、祈りのない言葉に、宿るパワーは微々たるもの(あるいは、まったくのゼロ)なんじゃないのかなと思います。弱くなることを通じて、矛盾するようですが『強さ』を教えてもらった気がします。

今朝、私は「男は岩で、女は水だ」みたいなことを思いました。ここに大きなコップがあるとして、そのなかにコップを満たすだけの岩を何個か入れたとします。岩はとても大きいために、岩と岩の間には大きな隙間がいくつもできます。そこに水を流し込むと、隙間を埋めるように水が余白を満たし、コップの空間全体を埋めることができます。私の中にある「本気を見たい」「命と命をぶつけ合いたい」「ライブをやりたい」と思う気持ちは、岩みたいなものなのだと思います。岩でコップを満たすことはできても、どうしても埋めることのできない隙間があります。自分だけでは埋められない隙間を、埋めてくれるものが他人の存在なのだと思います。たとえが下手で説明できている自信がないのですが(そして男女で分ける必要もない話でもあるのですが)、いまは安心して岩でいればいいのだと、そんなことを思いました。私が岩である限り、自分では埋められない隙間はたくさん生まれ続けます。以前は、そのことを「俺が未熟だからいけないんだ」と自分を責める形で考えていたのですが、そうではなく「自分だけでは埋められない部分があるから、助けてください」と誰かを頼ることができたとき、一緒に空間を埋めて生きていこうとすることを、共に生きるというのかな、と思いました。

圭吾さんの今の苦悩も、孫悟空のような超絶にヤバい変容をする可能性のある大親友の変身前の姿である気がして、勝手にひとりでワクついてしまいます。コロナでいまだに出入国には制限がありますが、また遊びましょうね。また会って、いろんなことを討論しましょうね!宿敵の悪役こそが最高のどんでん返しのポテンシャル!!宿敵についてギャーギャー話せる日を心待ちにしながら、お返事を楽しみにしています!!

ありがとうございます!!壇珠さんの胸を借りるつもりで、自分のことばかりペラペラ書き綴ってしまいました。最後まで読んでいただきありがとうございます。自分がなにかを思った時、一切の修正を加えることなくそのまま吐き出せる(吐き出したいと思える)相手がいてくださることの、奇跡のようなありがたさを感じています。私の中に、孫悟空のような変容の可能性を感じてくださりありがとうございます!!生きます!!俺、生きます!!是非、また一緒に遊びましょう!!文面だけだとどうしても真面目になってしまう傾向があるのですが、深刻になっている坂爪圭吾は、遠くから見ると悲劇っぽいですが、近くで見ると喜劇要素もたっぷりだと自負しています!!

ずっと忘れていた「死ねる歓び」の感覚を取り戻せたことがたまらなく嬉しく、元気百倍です。健やかなるときも、病めるときも、見守ってくださった壇珠さんに感謝です!!余談になりますが(そして、これはもうただ壇珠さんに聞いていただきたいだけの話なのですが)、数ヶ月前にライブをやった際に、それを見てくれた女子が終了後に涙を流しながら「今日のライブ、すごいよかったです」と声をかけてくれました。私がお礼を伝えると、彼女は顔をくしゃくしゃに歪めながら「あんなにも命を目の前で燃やしているのを見て・・・私、ちゃんと生きてなかったって思いました」と言ったのです。この言葉には猛烈に感動をしました。そして、ああ、俺はこういうやりとりをしたくて歌を歌ったり言葉を書いたりしているんだよなと、初心を思い出させてもらいました。ライブでは生身の人間が剥き出しになります。ものすごい真面目でおとなしそうな青年が、両拳を振り上げながら瞳を燃やしている姿を目の当たりにすると、たまらねえなあという気持ちになります。男も女も、老いも若きも、既婚者も未婚者も、学生もフリーターも、金持ちも貧乏人も、色々な気持ちを抱えながら生きている点においては変わらないのだなと、一蓮托生感を覚えます。同じ空間を共にすることこそ、最高のライブであり、最高の遊びですね!!グッとくるものがたくさんあります!!生きていると死にたくないなどと思うこともありますが、こうして「死ねる歓び」などと書いてしまう自分も同時に存在しているものですから、生きても歓び、死んでも歓び、歓びにまみれたときの重なりのなかで、また無邪気に一緒に遊べる日を楽しみにしています!!本当にありがとうございます!!

バッチ来い人類!うおおおおお〜!