【往復書簡】崖っぷち大好き。

上の壇珠さんの記事へのお返事です。

真に破れかぶれの捨て鉢のやけくそになれる機会って人生でそれほどないと思うのですが、わたしがこれまでの人生で「もういい!どうにでもなりやがれ!」と思って出た行動はいつも面白いことになりました。慎重に動いてそこそこに無難で安全だったことなどひとつも思い出せないのに、破れかぶれになったときのことは美しき人生のメモリーとして心に刻まれています。愛のメモリーです。この胸のときめきを、あなたに・・・!(松崎しげる『愛のメモリー』参照)。

本当だ・・・私も同じです!!人生、棒に振ってなんぼですね!!私の憧れの先輩(女性)が、以前「ヴォーニフル」という名前でバンド活動をしていました。棒に振るとかけていたのだと思いますが、言葉の響きが『ワンダフル』みたいで素敵でした。棒に振る is ワンダフル。ありがとうございます。

私は、一応、新潟県で一番頭のいい高校を卒業しました。同級生の進路は、大概「そのままいい大学に入って、そのままいい企業に入ること」がスタンダードとされていました。しかし、なんだかその予定調和感が気持ち悪く、私は「学歴を棒に振ったれ」と思いました。うまく表現できないのですが、自分がなにかを持つと、それによって自分の行動が制限される感覚があります。学歴があると「学歴を生かさなきゃ」と思い、結果、不自由になるのです。こんなもんこっちから願い下げじゃと、学歴をかなぐり捨てることにしました。学歴があるから生きられる人生より、学歴がなくても生きられる人生を「面白い」と思いました。こっちの方が、夢がある。こっちの方が、よっぽどドラマがある。出木杉くんが夢を実現しても「それはお前が出木杉だからだろ」となります。しかし、のび太が夢を実現すれば「のび太がやった!のび太がやりやがった!」となります。のび太がやるから、夢があるのだと思います。そう思った私は、能動的にのび太になることを決めました。私は、逆転ホームランを打ちたいんです。逆転ホームランを打つためには、ある程度ダメになる必要があります。ダメになるからドラマになるのです。

エリートから生きる力を学ぶことを放棄した私は、宗教と任侠に突撃しました。22歳の頃、上野公園で路上生活をしていたイラン人牧師のアリさんと知り合いました。イランはイスラム国なので、アリさんは「僕はブラックリストに載ってしまったから祖国に帰れないんだ」と言っていました。なんで日本にいるのか聞いたら「日本映画が好きだから」とのこと。日本語も、映画のセリフをぶつぶつ繰り返しながら上野公園で覚えたそうです。「こいつはやばい!」と思った私は、アリさんにつきまといました。詳しく話を聞くと、彼はイランイラク戦争の体験者で、戦時中にさっきまで話していた友人の頭が一発の銃弾で吹き飛ぶ姿などを目撃し、いろいろ精神がおかしくなりそうな時にかくまってくれた家がキリスト教を信仰していて、自分もキリストのために生きることを決めたのだと話してくれました。アリさんはストリートチルドレンだったために家も家族の愛もない環境に置かれていたため、これまでは腕っぷし一本で生きてきました。ストリートチルドレンが生きるためには主に窃盗を働く必要があります。腕っぷしがなければ生きていけないため、アリさんは体を鍛えてプロのレスリング選手をやっていた時期もありました。ただ、戦争体験が大きなきっかけとなり、今は日本にいるのだと。上野公園にいると、明け方、一台のトラックが来て「乗りたいやつは乗れ」と路上生活者に声をかけます。それに乗ると、日雇い労働先に運ばれるから日銭を稼ぐことができることなどを、私はアリさんから教わりました。

このような方々が、私の教師となり、私の教科書となりました。私は、いかに自分がぬるま湯で生きていたかを思い知り恥じました。そして「人間ってすげえ」と思いました。こんな言葉で括るのもあれですが、人間、やりゃあできるものだと痛感しました。その後、私は、極道関係者の方々と知り合う機会が増えました。ある日、父親がヤクザの組長だったと話す女性と出会いました。彼女は、自分の父親を「ぶんぶん丸」と親しみを込めて呼んでいました。どうしてぶんぶん丸なのですか、バイクでもお好きだったのですかと尋ねると、彼女は「討ち入りの時に、おとうさんは日本刀をぶんぶん振り回すことが得意だったからです」とのこと。生きている世界が違いすぎて、私のアゴは吹っ飛びました。そして、なんだかどこかしら滑稽に思えてしまって、彼らを大好きになってしまいました。生きるか死ぬかのギリギリの戦いをしているはずなのに、どこかしらユーモラスな彼らを「一番かっこいい」と思いました。規格外の生き方をしている人々を、生きる模範にしました。

これらが原体験となり、私は「常識をはみ出すことは、気持ちいいことなのだ」という偏った思考を抱くようになりました。常識は大事だと思います。だから、常識を知ることを怠ってはならないと思います。しかし、常識を知ることと常識に従うことは、別物だと思います。常識を知った上で、それを裏切る。しかも、自分なりに一番痛快な方法で。それが「面白い」だと思います。だから、私は、一番頭のおかしい人間とは「一番常識的な人間」なんじゃないのかなと思います。常識を知った上で、それを拒否する。自分を満ち足りた気持ちにさせてくれないのなら、一定の常識に対して「そんなものはいらない」と言えるだけの強さをもった人々に、私の心は惹かれました。

言葉には答えを見いださないほうがいいと思うんです。そういう装飾的なことよりも嗅覚で選ぼうという「菌任せな恋」がいい気がします。バクテリアン・ラブ。菌じられた恋。相手を好きかどうかわからないというときは、「話したいことなどなにもないのですが会いたいのです」と言って呼び出し、風の当たらない場所に誘導し、話などろくに聞かないで嗅覚を研ぎ澄まして鼻で決めればいいと思います。頭で話を聴こうとすると嗅覚が鈍るからです。首筋と胸と局所付近の香りを嗅ぎたいと感じたらGO、嗅ぎたくないなと感じたらNGです。フッと体臭が漂ってきて、なんだろう、なんか物足りない!という謎の欲求不満が湧いてきたら完全にGOです。

菌じられた恋!!なんじゃそりゃ!!爆笑しました!!動物的な嗅覚って大事ですよね・・・おフランス帰り気取りのおばさんに「腐乱臭がするぜ」と思ったことがあります(これはフランスと腐乱臭をかけています!!)。どれだけ表面を取り繕ってもごまかしきれない部分こそ、その人の『本当』ですよね!!壇珠さんを見て「情報を読み取られたくないからマスクをしろ」とか言ってくる奴がいたら、そんな奴ぁただのビビりだと思います。かっこつけたがるだけのかっこまんだと思います。見栄っ張りの見栄っパリスヒルトンだと思います。図星を突かれるとすぐに怒り出すかりかりぱみゅぱみゅだと思います。本を売るならブックオフ。媚を売る奴ファッ○オフ。さらけ出してこそですよね!!そっちの方が断然早い!!取り繕って生きるのは疲れます!!仮面をはずせ!!鎧を脱げ!!話はそこからだって感じです!!

鼻といえば、わたしは鼻が異常に発達していて、万が一アメリカ軍に目をつけられたら利用されるのではないかと思っています(書いているわたしは本気ですが、読むおかたは笑うところです)。なんでも鼻で決めます。鼻まかせの人生です。でも匂いには想像以上の情報が詰まっていて、たとえば臭いが酸化しているときには「この人は今日、過去にとらわれた気分で過ごしていたんだ」と感じたりします。鼻で選んだことには間違いがなくて驚きます。

これを読んだ時に「俺は目だな」と思いました。私のおめめはくりんくりんで、よく、お会いする人々から「なんでも見抜かれていそうでこわい」って言われます。私は「おいちょっとまて」と思います。それは俺がこわいんじゃなくてお前がお前をよく見せようとしているだけだろう、と。お前の本性は本当は醜悪でそれをお前が隠したいとか思っているから見抜かれることをビビっているだけで、俺単体は別にこわくないはずだ!!こわいのはお前の本性であって、俺は俺で純粋なはずだ!!どうなんだ!!そうだろう!!だったらその醜さをさらけだして「これが私です」と言えちゃったら恐怖心なんかただの幻想だったことに気づくだろう!!なんなら俺はお前の醜さを見たいんだよ!!お前の醜さを愛したいと思っているんだよ!!醜さをひっくるめたまるごとのあなたを愛したいんだよ!!ごわるぁ!!と、思います。

上の文章を書きながら「やっぱりこんな人間はこわいな」と思いました。ごめんなさい。こわいのは自分でした。でも、やっぱり私は思うのです。見抜かれることを恐れて距離のある付き合いをするよりも、愚かでも未熟でも裸の自分をさらけだして「これが自分です!」と自分を出しまくる付き合いの方が、私には清々しく感じます。そこからスタートだと思います。そうじゃなければさみしいままだと思います。終始相手の顔色を伺って、相手が喜ぶ顔を見て自分の存在価値を感じるだけでは、あまりにも奴隷です。それでは、相手が自分を嫌いになった瞬間に、自分も自分を嫌いになる、自分が自分に価値を感じることが難しくなる、自分の価値が相手次第になってしまう。それじゃあかんと思うのです。動物的な勘で、一歩踏み込む。臭いを嗅ぎたいなら「臭いを嗅ぎたい」と言う。触りたいなら「触りたい」と言い、抱きしめたいなら「抱きしめたい」と言う。壇珠さんがおっしゃる通り「話したいことなどなにもないのですが会いたい」と言って呼び出し、風の当たらない場所に誘導し、話などろくに聞かないで感覚を研ぎ澄まして鼻(自分が得意とする感覚。私の場合だったら『目』)で決めればいいと思います。

わたしが子どもの頃は、車を運転するのにシートベルトの着用義務がなかったのですが、わたしが小学6年生になるときにそれが法律で義務付けられました。それを聴いて一瞬理解ができないほど驚きました。は?!安全でいるのが、義務なの??と。安全でいるのは権利というか好きでやることなのだと思って、違和感がすごくて納得がいきませんでした。安全でいなくてはいけない、生きなくてはいけない、という押しつけに腹が立ちました。俺たちが自由に不幸になる力を奪うな!みたいなことを思いました。人類に栄える力があるのは、人類に滅びる力があるからだと思います。力というのはなんでもそうで、両極の力があってのことで、片方だけを都合よく抑えることはどうしてもできないのだと思います。どこかに歪みが出てしまいます。おっとっと死なせねえよ?安全に生きるのはお前らの義務なんだよ!と強制するから、自殺者が増えてしまうのだと思います。本来人間は、自然と安全でいたいものだと思います。

同意のヘドバンで首筋が痙攣しています!!ピクピクぅ!!生きる自由と死ぬ自由って、本当同じだと思います。私は海の近くで育ったのですが、溺れた経験を通じて「海、こええ」という真実を学びました。自然と、自然に対する畏怖の感情が芽生えました。そして、死にかける体験を通じて「生きていることってありがてえ」と、心底痛感しました。どれだけ普段「いつ死んでもいい」みたいなことを言っておきながら、いざ、死にそうになると死に物狂いで生きようとする自分を発見するのです。死ぬことを封じると、生きようとする自分を封じることにもなると思います。だからこそ「死なせてくれ」と思います。延命措置を生きるより、俺を死なせてくれ。俺を危ない目に遭わせてくれ。そうじゃないと、俺はバカだからすぐに生きていることを「当たり前」だと思ってしまう。当たり前じゃないこの命を、当たり前ではなかったと言うことを思い出させるために、俺を死なせてくれと思います。

わたしは子供の頃から、台風や地震のときにどうしてもワクワクしてしまう自分がいました。圭吾さんはどうでしたか。それによる被害を喜んでいるのではないのですが、家の中にいながらすごい風雨の音を聴いている間や家が揺れたりする間、大変なことになってこれまでの日常が崩されると感じてワクワクしました。

私にもあります!!めっちゃあります!!これって、海で溺れた体験と似ている気がします。世界が安定を失うことで、心の一部が「生きていることを実感するチャンス!」みたいな誤作動(?)を起こし、テンションがあがるのだと思います。死のリスクが高まるほどに、死のリスクが近づくほどに「生きているぜ…生きているぜ…俺はまだまだ生きているぜ…」みたいな震えを覚えます。いつ死ぬかわからない現実がリアルに迫ってきたとき、生の実感もまたリアルになります。油断をしていたが、そうだ、俺たちは言うまでもなく「明日生きている保証もない人生を生きていたのだ」という実感を取り戻すことができる、この感覚が嬉しいのだと思います。身が引き締まります。うひょーっ!となり、生きるぜ、生きるぜ、生きるぜってなります。大事にしていたものが全部壊れても、大事にしていたものの全部を失うことになったとしても、最後に残る命がある。この煌めきが、眩しい・・・!!

人はいつも裏切って遊びたいのではないでしょうか。ほんとうはなにもかも裏切りたいのだと思います。従いたいのではなくて、裏切りたい。自分の不安も裏切って、他人の期待も裏切って、ぶっ飛んだり想定外のところに行ったりして、うわー、もうなんも予測できないわ、と思いたい。さーせんでした!一寸先は闇でした!と言いたい。そうやって裏切っていると、裏切れないものが濾過されて残るのだと思います。それが、自分が経験したいもの、なのではないでしょうか。だから、やりたいことがわからないという人は、自分のことをサクッと裏切ってみるといいと思います。いつもの自分ならこうするんだけど、の逆を行って自分のこれまでの決まりを裏切りまくると、ひょこっと見たことのない世界が現れ、それはいろんなギャップに満ちています。そう考えると、自分を裏切ることが退屈しないコツだと言ってもいいと思います!

うおおおおおおおおおおおおおおおお!!狂人書簡も極まってまいりましたね!!なんかもう「やれ」と「行け」と「死ね」しか言っていない気がします!!事実、その通りだなと思います!!やろう!!行こう!!死のう!!やれなくなる前に!!行けなくなる前に!!死ねなくなる前に!!うまくいくからやるとか、大丈夫だと思うからやるとかじゃなくて、うまくいかないかもしれないけれどやる。ダメになるかもしれないけどやる。これで終わりになってしまうかもしれないけどやる。次があるとか考えない。いまの自分を全部出す。これが最後だ。毎日「これが最後だ」と思って生きた日々は、カルピスの原液より濃厚な『生』のエキスを撒き散らすのだと思います!!

自分を裏切ることが退屈しないコツ。名言をありがとうございます。これを読んでいるみなさまも、ぜひ、手元の手帳にメモしてください。自分を裏切ることが退屈しないコツ。毎朝、目覚めた瞬間に「今日はどんな風に自分を裏切ろうかな」と思ってはじまる1日は、なんだかとっても楽しそうです。自分の美学に従って生きている間は、なんだかんだ言って『安心』です。言い訳もできるし、これが自分だと正当化することもできます。一番怖いのは、自分の美学の外にあることをやることですよね!!それによって美学が拡張するかもしれないし、拡張することもないまま『恥』の意識に殺されそうになって終わることも、往々にしてあります。恥ずかしいことをやろう。小生、今日は、恥ずかしいことをやりたいと思います。恥ずかしいことをやって、自分の美学をぶち壊して、自分自身を裏切っていきたいと思います。

アボリジニーの人々に、誕生日を祝う習慣はないそうです。理由は「誕生日なんて、ただ生きていれば誰でも迎えることができるから」だそうです。彼らは、誕生日を祝う代わりに「今日は勇気を出して○○をした」みたいな日を、一族総出で祝うと聞きました。この習慣を素敵だと思った私は、セルフアボリジニストを自称して「今日を記念日にしてきます」と、毎日家を飛び出す愚者でありたいと思います!!横浜は本日も晴天なり!!春です!!露出狂が増える春です!!一緒に露出していきましょう!!ぬぉるぐあぁ!!

バッチ来い人類!うおおおおお〜!