【往復書簡】本当は全部許している。

上の壇珠さんの記事へのお返事です。

おはようございます!!朝です!!毎日色々な気持ちになりますが、まだ誰にも汚されていない早朝の空気は、すべてが一旦リセットされたような、昨日死んで今日生まれ直したような、大袈裟ですが「一回死んで奇跡的にまた生まれ変わっていま再び生きることができている」ような境地に立つことができるから、好きです!!一回死んだのだと思えば、残された人生はまるごとボーナスタイムみたいなもので、ふわっと空を見上げるような感覚で「やりたいことをやろう」と思えます。失うことを恐れて諸々躊躇をすることもありますが、循環のど真ん中を生きているのだと思えば、失うもなにもないのだなあと思います。永遠に夏のままではいられないけれど、夏が来ることに終わりはありません!!巡り続ける季節のように、巡り続ける俺です!!

今日は怖ろしいほどに時間がないのですが、短くなってしまっても中途半端になってしまってもお返事したいと思ってわがまま全開で書いています!!

なぜなのでしょうか、わがままをぶつけていただけることがとっても嬉しいです!!これは男的な歓びなのでしょうか!!わがままをぶつける対象として選ばれた光栄さを、能動的に感じています!!ありがとうございます!!

わたしの感覚を言葉にすると、「自分が流れちゃうと流れがスムーズになる」という感じがします。だから流れを「呼び込む」ってちょっと違う感じがするのですよね。それだと「自分がどこかに居て、そこになにかが流れ込んでくる」という感じがしますが、どちらかというと、自分も流れそのものだと自覚していると、なにかが流れ込んでくるのではなくて、ずっと自分がなにかとともに流れているんだなあと思ったりします!!

ぬあっ!!物凄い的確な表現・・・自分が流れると流れがスムーズになる、日々実感しています!!巷では引き寄せの法則などと言われていますが、本能的に逆を言いたくなる私は「引き寄せより押し寄せ・・・(ふふふ)」などと言いながら、呼ばれてもいない場所に勝手に押し寄せ、そこで巻き起こるまぐれ当たりを糧に生きている傾向があります。押し寄せの法則の実践者です。「自分も流れそのもの」という言葉も、とても美しい表現ですね!!本当にその通りだと思います!!流れていくことに抵抗をしているとき、私は苦しさを覚えている気がします。変わることだけは変わらないことを受容できたとき、心は穏やかであることが多いような気がします。変わりたくないという思いより、自分、他人、世界に対して「一緒に変わって行こう」と思えているとき、運命共同体とも言えるようなある種の連帯感を覚えます。

わたしは近年、どちらかというと穏やかな生活をしていて、こうした激しい気持ちを抱くことがほとんどなくなっていました。それを今のわたしは、わたし自身との喧嘩が終わって自分の中に和平が起こっているのだと勝手に思っていて、それがホクホクと嬉しくもあります。なんといいますか、余裕ができた感じがして嬉しいです。〜中略〜

「たとえば誰かに気遣いを向けたことでその場で自分を発揮できなくても、とんと問題ではない」というくらいにまで、のんびりしています。この点において、今わたしと圭吾さんはちょうど性別のように対の状態なのかもしれませんね!

本当!!対になっているとすごい思いました!!私は、毎日自分と喧嘩をしています。昔から「なんで俺はこうなんだろう」とか「いったい俺はなんなのだろう」と、自分というじゃじゃ馬にほとほと愛想が尽きそうになることがたくさんあります。これはもちろん現在進行形なのですが、そういう自分であることを「自分で選んでいる」ことを客観視できるようになってきただけ、昔よりは余裕があるのかもしれません。支離滅裂な自分を統合したいと願う気持ちと、より加速度を上げて「もっとめちゃめちゃにやってしまえ」と崖から突き落としたくなる気持ちと、そのどちらもが自分の中にあります。結果、引き裂かれるような痛みが毎日のようにあるのですが、この痛みを通じて「俺はまだ生きているぞ」という確認をしているのだと思います。矛盾に苦しめられることもありますが、矛盾こそが俺だとも思っています。

この前、とある企業のポスターに「私たちは障害者の人々と一緒に働いています。大事なパートナーである障害者の人々を私たちは支え続けます」といった内容が書かれていました。私はこういう言葉に過敏に反応をしてしまうタイプで、すぐに「いやいや、支え続けるって全然フェアじゃないじゃん!全然パートナーだと思ってないじゃん!支え『合い』続けるではないのですか!めちゃめちゃ障害者を下に見ているじゃん!障害者をダシに使って自分をよく見せようとしているだけじゃーーーん!!!」と、ものすごいツッコんでしまいました。もっと冷静に、もっと穏やかにツッコめたらいいのですが、どうしても炎が燃え盛るようなツッコミが湧き上がり「お前の会社に火をつけたろか」的な激昂をします。書きながら気づかせていただいたのですが、世の中に蔓延する嘘にツッコミを入れることができているときに、私はもっとも生き生きとするみたいです。いちいち怒らなくてもいい(普通に冷静に言えばいい)のですが、まだまだ未熟者で、永遠に燃え続けています。

黙って受け流せたらいいのですが、ガキンチョな自分は「つまらない」とか「鼻につく」といった理由で、違和感を外側に出さないではいられなくなります。私が見る限り、多くの人々は思っていても言わないということができているように見受けられ、本当に凄いなと尊敬します。時折、出会う方々から「取り繕わないで生きている坂爪さんは凄いですね」と褒めていただくことがあります。しかし、私から見ると「取り繕って生きることができるほうが凄い。自分にはそれができなかった。これは強さではなく弱さだ」と思います。自分の心がつまらないと感じることを続けることができず、どうしても破壊をする方向に舵を切ってしまうのです。そのため軋轢が凄いです。その場で自分を発揮しないでも、とんと問題ではないと思える壇珠さんの在り方に、強さと言うのも違うかもしれませんが、器の大きさを感じます…!!

わたしがなにかあればすぐに極端なところにいってしまいたかったころ、自分には心の体力のようなものがなかったなと思います。中間で踏ん張る力がなかった。すぐにどちらかの極に達して、それ以上やそれ以下がなく、あとは考慮する必要がなく、結論づいていてしまうほうが楽でした。ものごとにじっくりと付き合うために落ち着いて心を向けていることができず、瞬発力だけを使って極端な答えを出してしまうほうが楽だったのです。

これ、完全に俺です!!現在の俺です!!中間で踏ん張る力がなかった。正鵠を射る表現に「ぐはっ」となりました。グラデーションを楽しむ余裕がなく、白か黒か、善か悪か、生きるか死ぬか、すぐに「0か100か」で生きてしまいます。そのため、短期的な目標は掲げられるのですが、長期的な目標を持つことがとても苦手です。すぐに「明日死ぬかもしれねえ」となり、極論に走ります。事前に計画を立てることが苦手で、あらゆるものが現地調達、その後のプランは「やりながら考える」ことばかりで、よく言えば瞬間を生きるワイルドな男、悪く言えば雑な人間です。ただ、不思議なもので、いろいろなことをその時々の気分で手をつけたり手を離したりしてきたのですが、書くことと歌うことと自然に触れることだけは永遠に残り続けています。もしかしたら、自分のやりたいことというのは「気がついたらやり続けていたこと」であり、自分の中にある自然に従うことなのかもしれません。

これは個人的な好みの話なのですが、わたしはロリコンっぽいものが好きではありません。だから、大人の女性が幼女のように可愛く甲高い声を作って「いらっしゃいませえぇ~♥」と言うのが嫌いです。や、地声で普通に言えばいいじゃん。と思ってしまいます。わたしは祖国を心から愛していますが、そして日本人を愛していますが、自分の生まれ育った国の文化にもやはり、嫌いなところがいっぱいあります。日本人男性が30すぎたらおばさんだという人が少なからずいるのに比べ、欧州の男性はわたしの見聞にかぎってのことですが、60代の女性も若い女性も同じように、女性として扱う意識があると感じます。圭吾さんはこの辺の感覚はどんな感じですか?いきなり不躾な質問ごめんなさい!!!

全然不躾じゃないです!!ありがとうございます!!緊張します!!一番最初に思ったことは「自分をおばさんだと思うと、周囲からもおばさんとして扱われる」ということです。日本では、ある一定の年齢を超えるとおばさん(おじさん)として振舞うことがある種の礼儀作法である、みたいな風潮がある気がします。誰もおばさんだなんて言っていないのに、自分から率先しておばさんになってしまうと言いますか、女(男)であることをやめてしまう。こちらは女性として扱いたくても、受け取る側が女であることを拒み、その結果男性側も男になることができない。そのため、循環が滞ります。30歳を過ぎたらおばさんだなんてそんなことはある訳なく、自分が自分をおばさんだと思ったらおばさんになるのだと思います。できることならおばさんにならないで欲しいです。若作りをしろと言うことでは全然なく、ハートが感じるときめきをなくさないで欲しいと思います。胸をときめかせている女性は全員少女です。よく「歳の差何歳までなら付き合えますか?」などと聞かれますが、年齢にこだわっている時点でダメです。これは単なる私の好みですが、品性と少女性(チャーミングさ)を感じる女性が好きです。言い訳をしないで楽しんでいる女性が好きです。年齢なんてただの数字です!!

そして、私もロリコンボイスが嫌いです。正直「うるせえ」と思います。そんなものが俺に通用すると思うなよと、キッと睨みます。馬鹿なのかなと思います。馬鹿っぽく振舞うことが可愛いこと、自分にとって有利なことだと思っているのかな、だとしたら本当に馬鹿だなとかまで思ってしまいます。誰も本当のことを言ってくれなかったのだな、きっと彼女は自分はうまくやれていると勘違いをしているのだろうな、可哀想なひとだなと、上から目線で見下します。書きながら改めて思ったのですが、やはり私は「嘘をつくな」と感じた瞬間に違和感の炎がボワァと燃え上がるみたいです。自分をよく見せることも自分を低く見せることも同じように傲慢であると思います。壇珠さんがおっしゃる通り「や、地声で普通に言えばいいじゃん。」と思います。もしもロリコンボイスを使うのであれば、こちらが思わず尊敬しちゃうくらい、思わず笑っちゃうくらいのレベルでやってほしいですよね!!!

そこに主語がないというとき、つまりは述語もないのだと思うんです。愛する主体がないというとき、愛される客体もないのだと思うんです。
それって不思議ですよね。愛している。愛しているものが、愛されているものを、愛している。その、愛し愛されているもの、それ自体が愛の成分そのものであるだなんて。動詞がそのまま、名詞であるなんて。

今更ではありますが、これほどボリューミーかつ本質的なお返事をたったの40分で書き上げた壇珠さん凄いです・・・私はとんでもない方とやりとりをさせていただいているのだと、毎回、本当に毎回身が引き締まります!!

我らいつでも互いに、圭吾っていて壇珠っていたいですね。うまくいえないのですが、皮を被るのが問題だといいたいんじゃないんです。わたしは、いつも正直で居ればいいとは思わないんです。その正直さだって、自分の思い込みだったりしますよね、わたしたちは、なんだかんだと知らぬ間にあれこれかぶっていたりするものだと思うんです。

でも我々が、たがいにあれこれと皮のかぶさってしまうときにも、皮なんか全然気にしないで、その下の相手のコアに響いていると思いながら話しかけられる関係でいられたらと思います。

互いに、相手が恐れや迷いの中にいて、そのために皮で身を守っていても、無理やり皮を剥がすのではなくて、皮の下に響く音波で話してあげられるようでいたいと。相手の動詞と名詞が重なっていることを信じていられるようでいたいと思ったりしています!!

圭吾さんが圭吾っていて、それこそが坂爪圭吾だということを、圭吾さんがどんな皮の下にいなくてはいけないときにも、いつも見つめています!大丈夫だと知っていることを、忘れないでいます。だからなにが言いたいのかと言うと、互いにどんな皮をかぶったって、屁でもねえや!!ということです・・・!かぶっていいって!そんな自由ってある?!って感じですが、そのくらいに、「赦されている」ことを全開にしていたいですね!!

愛愛さー(あいあいさー)!!あいあいさー!!もう本当にその通りですね!!皮の下に響く音波・・・これはもう言葉を越えて音楽で話す感覚ですね!!新しい視点をいただきました・・・化けの皮を剥がすことに命を燃やしてしまいがちな私ですが、こちら側から無理やり剥ぎ取らずとも、本当の言葉で会話をできているならば、相手も(自分も)自ずから皮の下にあるコアの部分から、言葉を引っ張り出したくなるものだと思いました。本音を話さなければならないから話すのではなく、本音を話したい、自分のコアを差し出したい、本当の響きを重ね合わせたいと願う部分が、人間なら誰にでもあるような気がします。合唱コンクールの際に、様々な音がひとつのハーモニーを織り成した瞬間、もう、感動しないではいられないあの感覚。そんな情景が目に浮かびました。合唱曲を歌うように、他者と生きることができたら本当に素敵ですね。全然違う存在だからこそ、ハーモニーも美しくなる。

壇珠さんは絵を描かれていて、私は曲を作っているのですが、なにかを作ることって「世界を作ること」だと感じること、壇珠さんはありますか!?私は、毎日のようにそれを感じています!!音楽の中に世界ができて、そこには自分の居場所もある。だから、作ることってこんなに楽しいのだなと思います。そして、当たり前のことですが何度でも感動できることのひとつに「私たちは、自分が作りたいと思う世界(音楽や絵など)を、いくらでも作ることができる」ということです。ひとつのジャンルにこだわる必要は全然なくて、作りたいと思うものがあるならば、描きたいと思うものがあるならば、なんだって、いつだって、どのようなものだって自分(自分たち)の手で作り出していくことができる。そのことを思う時、うおお、音楽ってすげえ、世界を作るってすげえ、人間の想像力ってすげえって毎回感動します。

生きていると色々な気持ちになりますが、喜怒哀楽の全部の奥には「本当は全部許している」という感覚があります。全部を許している上で、自分は怒ったり、悪態をついたり、ひとを見下してみたり、拗ねたり、閉じたり、卑屈になったりしている気がします。どのような皮を被っていても、その根底には常に「本当は全部許している」という感覚が、通奏低音のように流れています。本当、屁でもねえですね!!我々の外側!!どのような我々も、ただ、愛しいだけですね!!外側の壇珠さんがどのようなものであれ、永遠に一緒に戯れている内側の壇珠さんを感じながら、勝手に力に変えて私も生きます!!言葉にできる範囲には限りがあって非常に歯痒いのですが、いま、とってもジワジワ来ています!!胸にグッと来ています!!最終的にはこの星を離れていく切なさを抱えながら、共に生きて生きましょう!!うおおおおおおおおおおおお!!言葉になりきらない行間に、星と行間に願いを込めて、放ちます!!どうおりゃーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!

バッチ来い人類!うおおおおお〜!