【往復書簡】虚無ってる場合ではない。

上の壇珠さんの記事へのお返事です。

おはようございます!!おはようございます!!おはようございますの中に「元気ですか」も「愛している」も「目を覚ませ」も「死にたくねえ」も「俺たちまだまだ生まればっかりだ」も、全部、全部、全部があります!!一球入魂、全身全霊、一世一代のおはようございます。おはようございますで泣けるか。涙が出るほどのおはようございますを言えるか。はい。言えます。言えるはずです。ありったけの気持ちを込めて「おはようございます」と叫ぶとき、鼻水もよだれも涙も全部、全部を垂れ流すことが可能です!!

俺が朝と言えば朝なんだよ。俺が自由だと言えば自由なんだよ。俺が「おはようございますで泣ける」と言えば泣けるんだよ。幸せも喜びも、全部自分が作り出しています。その点において我々は神です。神の往復書簡です。そんなんじゃ泣けないと言う人には「俺が手本を見せてやるよ」と言いたいです。俺は生きたいんだ、俺は生きたいんだ、俺は生きたいんだと主張する熱き激情の全部を「おはようございます」に注ぎ込む限り、絶対に泣けます。だって、命は、こんなにも生きたがっているのだから・・・!!生きたい!!生きたい!!生きたい!!生きたがる命の叫びを「おはようございます!!」に全部凝縮させて叫ぶとき、もう、涙を抑えることはできません。

私は、誤って足の小指をタンスにぶつけたときなど、痛いと叫ぶ代わりに「生きてるぅ!!」と叫びます。不思議なことに、痛いと叫ぶと苛立ちや後悔や自責の念が湧き上がるのですが、生きてるぅ!!と叫ぶと「本当にその通りだ」と冷静沈着な自分を取り戻し、なんならちょっとほくそ笑みます。不敵に。ふふふふふ、俺はまだ生きているぜ。痛みで涙がこぼれたとしても「これは血の涙だ。生きている証拠だ。」みたいな感じで、悲しくも勇ましい英雄を気取れます。私は、人生全般をおままごとだと思っている節があるので、どうせなら自分が一番テンションのあがる役柄を演じたいと思います。痛い時に痛いと叫ぶのは癪なので「生きてるぅ!!」と叫びます。苦しい時に苦しいと叫ぶのは癪なので「愛してるよ」と叫びます。このような試みを続けると、実は、この世の全てのリアクションは「愛したい」に置き換えられることに気づきます。おはようございますと言っている我々は、実は「愛したい」と叫んでいたのだと思います。泣ける話じゃありませんか!!

わたしは毎日のように、異常なほどに「ある日あるとき、わたし自身が死ぬ」ということをどこまでもリアルに感じることをしています。わたしにはわたしというものがどこにも居ないと感じられていて、わたしの人生は「わたし」という壮大な勘違いを仕掛けとした、精密で、信じがたく許せないほどにシンプルな遊びなのだと感じられます。そう考えるとわたしという個は生まれてもいないし死にもしないのだろうかと思いますが、わたしはそれは放っておいて、この肉体が動かなくなり肉の塊になることを考えます。

さようなら、五感よ。さようなら、地球上でのこの肉体の反応の経験よ。そう思っています。なにもかもが物質でなくなる瞬間を想像します。あの、誰かの肌が、これ以上ないほどのリアリティをもってして「ここにある」と思えていた日々。花の香りが、人間の鎖骨が、音のもたらす脳と神経の反応が、水の冷たさが、これ以上にないほどのリアリティをもってして「現実だ」と感じられていた日々よ。そう、この瞬間よ!!なにもないところからは、そのあまりに強烈な経験は『奇跡』などという寝ぼけた安い言葉では表現することのできない、太陽を肉眼で見るときのような、自分の脳では「感覚」として再生し体験することの不可能なほど眩しい、宇宙の大きさの爆発の瞬間の連続だったと感じられます。ビッグバンは毎瞬起こっている。わたしの気のままに。宇宙サイズの娯楽、究極の贅沢です。

凄過ぎて何も言えません。頑張って追いつきたいと思います。この「頑張って追いつきたい」と思わせてくれる壇珠さんと、そう思う自分が好きです。きっと、それって、直感的に「これは本当の言葉だ」と感じ取っているからなのだと思います。未体験の感覚だとしても、そこに真実の響きを感じるからこそ、これからの日々の中で「あ、これのことか」と実感する瞬間を予感させる。だから、いまはまだ完全にはわからないとしても、大事に抱えながら生きていたいと思わせてくれます。抽象的な言い方になりますが、私たちは「大丈夫だったこと」を確認するために、不安や恐怖を生きている気がします。本当は最初から全部大丈夫だった。本当は最初から全部許されていた。そのことを実感するために「大丈夫じゃない」と思う中を生きてみたり、「許されていない」と思う中を生きてみたりするのだと思います。自分で自分を許せない時期は半端なく辛いですが、その後の「許されていた!」と知った時のよろこびは、言葉にならないほどおおきなものだと思います。

徹底的に落ちて、部屋から出られませんでした。わたしはキレる若者だったしニートだったし片付けられない女だったしお風呂にも入れない廃人でした。今思うと、あの廃人期はどんなホメオパシー薬も敵わないほどの自然治療だったと思います。ゾンビ化するウイルスに感染すると「他者から評価されることへの渇望感」という症状が現れますが、その脱ゾンビのためのワクチンは、「優しい人」「いい人」「思いやりのある人」「よくできた人」「道徳的な人」「常識的な人」だと思われることを諦めて、最悪に残酷になることでした。わたしは当時、父が帰らず生活費の入らなくなった家に取り残されて、パートに出て身体を酷使してお酒に溺れ荒れていた母を置いて家を出ました。自分がそばにいることが、母の助けになるのだろうと信じ込んでいたのにも関わらず。自分の喜びを追うためなら、自分を腐った残酷な人にしました。世間からはみ出させて、愛だと思っていたものから斬り離してさらし首にするしかありませんでした。その罪悪感に耐え抜きました。それが、わたしたちのワクチンでした。結果、母は立ち直り、わたしは廃人を抜け出ました。そこからしか動かないものがあった。蓮の花は、泥からしか咲かないのだと思います。

物凄い経験談をありがとうございます。真実の響きがすごいです。私は、人間は幸せになる義務があると思います。幸せになってくれないと困ると思います。そのときに、必要になる力は「死んでたまるか」と思う怒りだと思います。愛でもなく、優しさでもなく、怒りだと思います。このままでは終わらないと思う力、これまでの自分をぶち壊す力、自分を縛り付けてくるもののすべてに「やめろ」「もう懲り懲りなんだよ」とすべてを引き剥がす力、それは怒りだと思います。残酷になること、悪人になることも引き受けて、自分を縛り付ける糸を断ち切る。そのことでダメになってしまうとしても、二度と立ち直ることはできなくなるとしても、それでもその道を選ぶ。そうすることでしか、本当の『生』を生きることはできないように思います。ゾンビ化するウイルスは常にそこら中を浮遊していて、油断をしていると「諦めろ」というメッセージを私たちに投げかけます。その声に従うと、居心地の良い虚無に侵食されます。自分にはこの程度の人生がお似合いなのだと、希望の全部を来世に託して、今世を思い切り生きることを投げ出します。その態度を、ぶち破るものが怒りだと思います。ふざけるなと叫ぶ怒り。自分の生命を、人間の可能性を冒涜する日々に神聖な怒りを覚えたとき、人は変わっていくのだと思います。変わらずにはいられなくなるのだと思います。

わたくしめも圭吾さんを尊師と呼びたく存じます!!我々は尊師~ズですね。いつか尊師~ズで、どんなに深刻な相談にも「それがどうした」と言うだけの場を作ってみたいです。「これをしちゃうとママ友から白い目で見られて仲間はずれになるんです」「それがどうした」。「会社が首になりそうです」「それがどうしたのかしら(クスッ)」です。そしてカッとなった参加者に刺されたりして、みんなに「こんなことで死なないで!」などと言われて、死の間際に死ぬのを本当に惜しいと思いながら言う言葉は、「それがどうした」ではなく「死にたくねえ!!」です。そうですよね尊師!!

そうです!!そうですそうですと頷きながら爆笑しました!!やっぱり最後は「死にたくねえ!!」です。見る人が見たらめちゃめちゃなのだと思いますが、小生、ここに人間としての一貫性を感じます。バカなことに命を賭けて「俺は身の程知らずの荒くれ者なのさ」とか気取ったことを言っておきながら、結局最後は死にたくねえ。死なないために生きているわけではないけれど、死ぬために生きているわけでもない。あくまでも、我々は「生きていたい」だと思うのです。生きたいと思う力を阻害するものを吹き飛ばしたいと思うだけで、生きていたくない訳では全然ない。なんなら誰よりも生きていたい。千年も万年も生きていたい。執着は悪いことだと糾弾されても、生きることに死ぬほど執着したい。だからこその「死にたくねえ!!」だと思います。この世で一番素直で、この世で一番まっすぐな言葉だと思います。

わたしは「お金じゃねえんだよ」という人に実際に会って関わったことがありまして、とても嫌な思いをしました。わたしも未熟者なのでこんなことを書くのは恐ろしいのですが、その人のことを「卑屈な貧乏人」だと思いました。お金と仲の悪い人で、そのためいつもお金に困っているようでした。お金じゃない、という人はお金側の気持ちにもなってみやがれと思うんです。そりゃあお金側だって「お金じゃねえんだよ、もっと大事なものがある」みたいなことを言われたら、あっそ。と言って離れるものだと思います。わたしだって、もし誰かに「お前なんてどうでもいいんだよ。もっと大事なものある」と言われたら、んじゃ近寄んないわ。と思います。壁に耳あり障子に目ありといいますが、お金にも耳も目もあります。ほんまやねん!!

いやもう本当にありがとうございます。わかりやすすぎて「お金さん、ごめんなさい」と思いました。軽く扱ってきてしまった自分を反省しています。私はウルトラチキンなので、どうしても「ないならないでどうにかなる」の方向に舵を取りがちです。ただ、忘れてはならないのは「あったらあったで超最高!」の部分だと思いました。これって、人間関係にもあてはまりそうです。ビビリな私は「あなたがいなくても私はちゃんとやっていけますよ」的な態度をすぐに選びそうになります。依存することを先回りして恐れていると言いますか、それを失うことで自分がダメになることを恐れて、深く関わることを避けるのです。それが悪く出ると、相手に「ああ、自分なんかいなくてもいいんだな」と思わせてしまって、関係性が決裂する。本当は大好きなのに、本当は強く必要としているのに、自分が強がることで相手が離れてしまう。ああ、書きながら「まさに!」とか思っている自分がいます!!どうでしょうか、これ!!これ、みんなもあるあるじゃないでしょうか!!

本当は、ぐちゃぐちゃになって混ざりあいたい。巷では「あたながいなくても私は幸せ。だけど、あなたがいたら私はもっと幸せ」みたいな関係性が理想とされていますが、それさえも飛び越えて、俺はお前が好きで好きでたまらないんじゃあああ!!ぐおりゃああああああ!!ぐちゃぐちゃに溶けて混ざり合ってくれ!!お前がいなけりゃこの人生は虚無!!まったくの虚無じゃ!!NO お前 NO LIFE!!って、これくらい言えた方が本当だと思いました。ちょっと怖いですが、ちょっと怖いくらいが本当だと思います。怖い自分を抑えたり、相手に遠慮ばかりをしていると、さみしさが蓄積します。さみしさとは、愛することを自分に禁止したときに、芽生える感情だと思います。愛したいものを、愛したいように愛せたとき、人は生き生きとします。お前は俺で、俺はお前です。お金は俺で、俺はお金です。一心同体です!!

虚無ってる場合ではない。やはり、我々の本音は「愛したい」だと思うのです。自分なんかどうなってもいいから、自分以上のものに自分をぶつけたいと思うパッションが、生きる熱情を噴出させるのだと思います。いまこの瞬間も、愛することを阻害するものに「ふざけるな」と怒り続ける神聖な魂。いまこそ、我々は全身全霊のおはようございますを叫ぶ時が来ています!!朝は愛せるけれど夜は愛せないとか、そんなことあるはずありません!!あってたまるか!!我々がおはようございますと叫び続ける限り、永遠に世界は目覚め続けるのです!!おはようございます!!おはようございます!!おはようございますと叫びながら、我々はとっくの昔から愛されていたことを、我々はとっくの昔から許されていたことを知るのだと思います!!おはようございます!!おはようございます!!おはようございます・・・!!

バッチ来い人類!うおおおおお〜!