【往復書簡】どうぞ私を嫌ってください。

上の壇珠さんの記事へのお返事です。

おはようございます!!おはようございます!!毎日、今日こそは終わったと思いながら往復書簡を書いている俺です。壇珠さんは、どんな気持ちでこの往復書簡を書いていますか!?私は、書き終えた時点では「よっしゃー!」とか「決まったー!」などと思っているのですが、時間の流れと共に「今日こそ嫌われた」「今日こそ終わった」「今日こそすべてを失った」と思ってちゃんと凹み、しっかり躁鬱病を生きています。いよいよ俺はひとりぼっちになるのだな、と、毎日のように感じています。希望と共に目覚め、絶望と共に眠る男。毎日死んで、毎日生まれ変わっています!!俺です!!

だからこそ、壇珠さんのお返事に毎日救われています!!ありがとうございます!!江國香織さんの小説に「号泣する準備はできていた」という作品がありますが、私は毎日「血の涙を流す準備はできていた」と思いながら記事を書きます。それくらい私はビビリで、死ぬ気にならないと自分の思いを書けないヘタレ野郎です。毎日「ああ、俺はすべてを失ったのだな」と脳内で妄想を展開し、全部を失っても生きるための靴紐を結び直します。一人でも生きる。俺は一人でも生きるぞ。そう思いながら「うおりゃー!」と放り投げた言葉たちに、壇珠さんがそれ以上の「うおりゃー!」を重ねてくれる。崖から突き落とした言葉たちが、毎日、疾風怒涛の風神によって自分の胸元に返ってくる。より強い言葉となって!!より逞しい言葉となって!!これほどうれしいことはありません!!俺はまったく、一人じゃない!!(涙)

そして改めて、自分はどう思えば励みになるだろうかと考えてみました。考え始めて1秒で3つの答えが出たのですが、ひとつは「俺は人類だ」でした。もうふたつは「俺は生きている」と「俺は意識体だ」でした。軽くヤバいように見えるかもですが、ひとつにまとめると「俺は生命体だ」ということです。わたしにはどうにも「生命体であるなんて、猛烈にすごいこと」だという思いがあって、これは別に、iPhoneとかキン消しとかの非生命体をナメたり差別したりしているわけではないんですが、でもやっぱり自分が世界を観察していることが不思議でたまらず、生命体であることを「なにこれ!!」と思ってしまいます。なので、「フッ見ろよ。俺さまときたら生命体なのだ」などと思うと、なにかもう、自分が選ばれし勇者という気がしてきます。圭吾さんは、どんな感じがしますか!!!

めちゃめちゃわかります!!前に私は修羅場を体験しました。23歳の頃、私は7歳年上の女性と付き合っていました。あとからわかったことなのですが、彼女にはもうひとり彼氏がいました。私より10歳以上年上の男性(強面)と、ある日ばったり鉢合わせた瞬間がありました。私は死ぬほど睨まれました。彼女は隣で震えています。私は「殴られるのだろうな」と思いました。そして、その直後に「殴るなら殴れ」と思いました。俺は俺だ。俺は俺だ。俺は俺だ。「俺は俺だ」と唱え続けることが自分を保ち続ける力になると思った私は、強面の男性に睨まれ続けながら「俺は俺だ」と(心の中で)唱え続けました。殴るなら殴れ。俺は俺だ。そう念じ続けていましたら、やがて「ちっ!」とか言いながら、強面の男性は部屋を出て行きました。出て行く途中でゴミ箱や扉を破壊するほど蹴り倒したりはしていたのですが、私を殴ることはありませんでした。結果、私も彼女も無傷でした。私は「勝った」と思いました。勝ったと言うか、気持ちで負けなかったと思いました。

それ以来「俺は俺だ」と唱えることが自分を保つ秘訣になると思うようになった私は、10年後、ハワイのオアフ島で強盗に遭いました。拳銃を突きつけられて「金を出せ」と言われました。この時も私は「殺すなら殺せ」と思いました。俺は俺だ。俺は俺だ。俺は俺だ。そう唱え続けながら相手と対峙を続けたら、やがて「ちっ!」とか言いながら、強盗は私の所持金80ドルを握りしめてその場を走り去りました。私は正直冷や汗ものだったのですが、なにか貴重なことを学んだ気がしました。殴るなら殴れ。殴られてもいいと思うと、案外殴られないものです。逆に「殴られたくない」と思うと、殴られるのかもしれないと思いました。こんなことを書くと「坂爪さんは腹が据わっているから強いのですね」とか言われてしまいそうですが、全然そんなことはありません。強い人がなにかをするのではなく、なにかをすることで否応無く強くなることがあるのだと思います。あのとき、私は「俺は俺だ」とか「殴るなら殴れ」と思ったことによって、強くなったのだと思います。

それ以来「最悪の場合は殴られるだけ」が人間関係のベースみたいになり、ホームレスみたいな人に絡まれても、以前ほど怯まなくなりました。面倒な人と関わり合いになることは結構多いのですが、最悪の場合は殴られるだけだと思えば、そこだけ腹を括れば意外と会話ができるものです。「殴るなら殴れ」と思っている人間には独特のオーラが宿るみたいで、胸ぐらを掴まれることはあっても、実際に殴られたことはまだありません。殴るなら殴れとは思っていますが、同時に「俺を殴ることがどういうことだかわかっているよな」とも思っています。無言の圧力をかけているイメージで相手と対峙します。そうすると、意外と殴られないで済むことを学びました。おそらく、加害者たちは「こいつの弱味にはつけこめそうだ」という人間を本能的に察知し、ハンティングしているのだと思います。自信がなさそうにしているひとは狙われます。嫌われたくないと思っていたり、傷つきたくないと思っているひとも狙われます。その逆、嫌われてもいい、傷ついてもいい、場合によっては殴られてもいいと思っている人は、逆説的ですが案外大丈夫です。

圭吾さんに集まる反感には「働け」「世の中をなめるな」「感謝しろ」などというものが多いと以前教えて下さいましたが、わたしは圭吾さんが遊ぶことが、「そうやって働かない人に苛立ちを隠せないほど自分の仕事や人生を面白がっていないやつのイヤイヤやっている8時間労働」よりも1億倍くらい世の役に立っていると思います。好きに生きていいんだな、やりたいことやってもいいんだな、仕事をしなくても死なないんだな、人って優しいんだな、自分がもし、いざ、働けなくなったとしても楽しい気分でいることができるんだな、ということを示してくれたことをわたしは偉業だと思っています。が、それと同時に、苛立ちを感じさせることがまた偉業だと思います。

ありがとうございます!!ありがとうございます!!私が犬なら「いまだ」と思って嬉ションをするのだと思います!!ジョボボボボボボボボー!!家のない生活をしていた頃、私は初対面の人々の家にお世話になる日々を過ごしました。そんな私を見て「坂爪さんはすごいですね。そんな生き方をできるだなんて勇気がありますね。」と散々言われました。しかし、私は違うと思いました。確かに私は勇敢な人間かもしれませんが、一番すごいのはこんな人間を家に泊めた人の存在だと思いました。私みたいな人間が生きていられるのは、私みたいな人間を生かしてくれた人々がいるからに他なりません。そうじゃなければ、とっくの昔に私は絶滅をしていました。野垂れジニーになっていました。私はここに感動を覚えます。世界の器のどでかさを感じます。壇珠さんがおっしゃる通り「人は優しい」ということを学びました。人は優しい。優しい人は必ずいる。どのような生き方をしたとしても、必ず、世界はその受け皿を用意している。これはとても心強い信頼を与えました。全員がそうではないにせよ、優しい人はいて、優しさを示したがっている人々はいまも確実に存在しているのです!!嗚呼、素晴らしい世界!!

そして柱の陰周辺でウロウロしたり隠れたりしてひっそりとしているとき、それを圭吾さんに見つかりました。そのとき圭吾さんは、わたしを見てとても楽しそうに笑いました。「隠れてるんですよね」とおっしゃって笑い、「そういう素の姿がいいと思います!!」と子供のように笑っておられました。覚えていらっしゃいますでしょうか!わたしはあのときにとても嬉しかったです。わたしが狂気に満ちているときも魔太郎時にも、いつもそれを笑ったり楽しんだりしてくださることが心から幸せであります!!

猛烈に覚えております!!忘れられません!!私は合コンに一回しか行ったことがないのですが、どうしても「場の空気に乗り切れないで、隅っこいる人」にシンパシーを感じます。黙っているひとほど、口数の少ないひとほど、その場の真実を嗅ぎ取っているように思います。だから「あなたの真実を聞かせてよ」みたいな気持ちになって、ふらふら〜っと近づきます。巷ではコミュ力などと言うふざけた単語がありますが、私は一般的な意味でのコミュ力が高い人が嫌いです。コミュ力なんてうんこです。あんなものは「期待されている役割を演じることができる」だけのことで、要するに嘘のスキルです。国語の先生に褒められるために作文で綺麗事を書いているだけの優等生と同じです。これはもう、私、学校教育最大の弊害と考えております。

自分の考えを言うことより、期待される答えを答える訓練を積む。親に期待される人間、先生に期待される人間。上司に期待される人間。そして、あっという間に自分が消えてなくなる。しかしながら、自分という存在をなかったことには絶対にできないので、自分の亡骸が皮膚の内側に堆積して腐り、汚物のような腐敗臭を発する。この汚物が鬱病や買い物依存や過食症、最悪の場合は犯罪の元凶になる。コミュ力が高い人に感じる異臭は「お前の中で、お前が腐っているみたいだぜ」と、私の直感が囁いているからなのだと思います。だからこそ、普通こういう場面ではこうするものだろうという定例を一旦無視して、柱に隠れて「私はこれをやります」と自分を貫いてくださる方の存在は、激しく貴重です!!唯一、そこでなら自分も一緒に呼吸をできるという安心感、最後の楽園、ファイナルファンタジーを感じます!!

圭吾さんは、「謙虚」という言葉の意味するところが違うんじゃないのかと思うこと、ありませんか!!わたしは「自分は人より劣っています」と考えることが謙虚、みたいな空気がダメです。あれを吸うことができません。

その理論だと、常に自分と人とを比べなくてはならなくなります。わたしは、人がほんとうに謙虚になったときって誰かと自分を比べなくなるのだと思うんです。自分まだまだです!!と言うときに、他人を値踏みしたり力量を予測して自分と比べてから言うだなんて、謙虚じゃない気がします。そうではなくて、ほんとうに謙虚なとき、自分まだまだです!!というのは自分自身の御眼鏡にもっともっと適っていきたい、という思いだと思います。

というわけでそんなふうに思っている謙虚なわたしは、「自分ひとりしかいない宇宙なんだもん当然俺さまが宇宙一」と思いながら、かつ、自分は自分の世界で青二才でまだまだです!!と思っています!!アチョー!!(躁)

ここ、めっちゃわかります!!めっちゃわかる故の三段落引用です!!自分はダメ人間だとか、自分はクズだとか、自虐ネタで言っているだけなら全然いいのですが、誰かと比べて言っていたり、卑屈になっているだけの場合は「一回死ね」と思います。どうせお前、謙虚なふりをして「自分は本気を出せばまだまだやれる」とか思っているんだろうと。そこにすがっているだけなのだろうと。自分が本気を出せばきっと最高の成果を叩き出せるはずだという最後の希望が壊れることが怖いから、いまはまだ本気を出さないで「俺はまだ本気を出してないだけ」と思い続ける道を選ぶ、それだけのことなのだろうと。こういった意味での謙虚は大嫌いです。死ねばいいと思います。一回死んでダメな自分を痛感して、痛感したあとに湧き出る「次はこうすればもうちょっとましになるかも」という、その思いを握りしめるべきです。

謙虚とは、自分はまだまだこんなもんじゃないという自分の期待に応える『行動』だと思います。「俺はまだまだだよ」と言う時、卑屈になりながら言うか、自分の無限の可能性を信頼している上で言うかで、全然響きが変わります。俺はまだ俺がやれることを知っている。その上での「自分まだまだっす」は、非常に爽やかであります。卑屈な人間の謙虚は、行動が伴っていません。だから「一回死ね(一回動け)」と思います。うだうだ言っていないでやれ。死ね。やって死ね。お前の話は全部頭なんだよ。ボディが全然伴っていないんだよ。やれ。死ね。やって死んでそこから湧き上がるものを握りしめて生きろ。話はそこからだという感じです。お前の卑屈さに巻き込まれている時間はねえんだよと、そういった気持ちになることが多いです!!

「自分が壊される面白さ」、これがわたしも最強だと思います。そして、これはたしかに、悪魔のお誘いだなと思いました。やっちゃいけないと思っていたことをやっちゃってみちゃってみるのはエキサイティングです。恐怖と安心のコラボです。わたしにとってはいつもいつも「あああああ枠を壊せてよかったー!!!」と思えるものでした。面白いので、わたしも誘いたくて誘いたくてたまりません。このお誘いのためなら、どんどん人を煽るのがうまくなりたいとすら思います。ほらほら、チミもコッチ側においで?にょほほほほほ、と思っています。圭吾さんは今、どんなことをお誘いしたい気分ですか。

ありがとうございます!!私は、ここで「どうぞ私を嫌ってください」と言ってみることをお誘いしたいです!!君に!!あなたに!!自分自身に!!

何かをやりたいと思う。しかし、これをやったら顰蹙を買うかもしれない。ひとでなしと思われるかもしれない。罵詈雑言を浴びたり、周囲に多大な迷惑をかけるかもしれない。それでもなお、そこで自分の思いを引っ込めるのではなく「どうぞ私を嫌ってください」と言ってしまう方向に舵を取る。これはなかなかスリリングで、結構なインパクトを与える気がします。油断をしていると「どうすれば好かれるだろうか」とか「どうすれば受け入れられるだろうか」とか、我々はそういう思考をしてしまいます。しかしながら、誰かに合わせて生きるほど自分を失うことも事実。ここは一旦開き直って「どうぞ私を嫌ってください」と居直りを決めて、やりたいことをやっちまうことをお誘いしたいと思います!!君に!!あなたに!!自分自身に!!

どうぞ私を嫌ってくださいと言えているとき、少なくとも自分だけは自分の味方になることができています。それによって離れる人がいたとしても、自分はより一層自分に近づきます。こんなことをしたらひとでなしと思われちゃうかなとビビったとしても、事実、ひとでなしだと思われるようなことを考えちゃっているのだから、これはもういい子ぶっている場合ではない。「私はこういう人間です」とか「私はこういうことをやっちゃう人間です」と言えているとき、少なくとも自分自身は爽やかです。自分を殺して好かれるよりも、自分を出して嫌われた方が清々しい。素っ裸の自分を見た人が「あなたは素敵ですね!!」なんて言ってくれた日にゃあ、いよいよ自分冥利に尽きると言うものです。自由に生きているひとは、それに触れたひとの心も自由にするものだと信じます。あとは自由のセンスを磨くのみです!!

たとえ失敗ですらも、ロクでもない、価値がない、ということはないのだと思いました。きっとわたしたちは、自分にロクでもないだなんて、どんな時も思ってはならないのだと思います。自分のタブーを捨てるのって、発想の転換に満ちたほんとうに面白いことですね!今後はプレステよりもタブステです。わたしもタブステでハイスコアを叩き出すべく、今後も己のタブーを破っていきたいと思います!!タブステで一緒に遊んでください!!よろしくお願いいたします!!

プレステよりもタブステ!!爆笑しました!!すごい!!ここに新手のゲームが生まれました!!お金がなくてもすぐにできちゃう!!テレビがなくてもすぐにできちゃう!!場所を選ばない!!時間を選ばない!!おお、なんてブラボー!!顰蹙なんて買いたくないに決まっているはずなのに、なんだか顰蹙を買いたくてたまらない気持ちになるから不思議です。嫌われることをおそれる自分が時折顔を出しますが、冷静になると「あれ、なんで嫌われることが嫌なんだっけ??」という根本に立ち返ります。嫌われることって実はそれほどたいしたことではないみたいです。不思議なことに「今日こそ嫌われた」「今日こそ終わった」「今日こそすべてを失った」と思うことを書いたときほど、みなさまとの絆も深まるように感じています。人生は摩訶不思議アドベンチャーですね。今こそ孫悟空を召喚して「オラが相手だ」と言わせたい。胸ワクワクの愛がGISSIRI!!色とりどりの夢がDOSSARI!!この世はでっかい宝島!!そうさ今こそアドベンチャーーー!!一緒にこの星をアドベンチャって行きましょう!!生きましょう!!逝きましょう!!

バッチ来い人類!うおおおおお〜!