ピアニスト(1)

どこからどこまでがピアニスト、日々これこれしてあれをしているからピアニスト、などと、きっちり線引きをするのはなかなか難しいことであって、そしてそれは別段しなければならないことでもないように思うのですが、ともかく側から見ればひとまず僕は、間違いなくピアニストなのであろうとは思います。まず、他のことが何もできない。そして、ピアノをとても頻繁に弾いている。1日のうちで音楽に関連付いて生きる時間って、12時間は優に超えているでしょうから(散歩しながら音楽を脳内再生する時間、読書を通して人間について知る時間、コーヒー、その他もろもろ諸々もここに含ませて下さい)。


ところで、演奏家という「お仕事」は、我ながら並の精神ではやっていけないお仕事だなぁと思います。心臓が飛び出てどっかいってしまいそうな程の緊張を強いられる"舞台"というものを、日常とするなんて。。。心臓よ、いつも大変な負担をかけて申し訳ない。
それに、ある日には例えば1000人もの人々を前に華々しい舞台で自分の全精神を注ぎ込み何かを表現しなければならないかと思えば、でもまたある別の日には、人に誰とも合わず、楽譜、そして楽譜の向こう側でそっと微笑むベートーヴェンさんやショパンさんとただ黙々と対峙しようと試みる。ひとり。なんだか華やかと地味を見事に両極に振ったような生き方じゃない。


そんなわけで、ひとりの人間が演奏家になるにあたっては、運と、当人における一定水準以上の演奏能力が必要なのは勿論のことながら、どの程度「向いているか」ということを、本人も周囲もまず第一に考慮してやるべきだと思う。"どのくらい"演奏家であれるのか。毎日人前に出ることが大丈夫な人もいれば、一度舞台に出る毎に、5日間の充電期間が要る人もいる、例えば。
心は機械ではないから、部品が揃いメンテナンスが整っていても、必ずしも毎日動くものではない。人間の心は、私達がちゃんと知っている通り、しっかりと気難しいのだね。


ー・ー・ー


音楽大学での学びを経て辿り着く1番輝かしいゴールは演奏家である、という先入観が、少なからず日本にはあるように思う(水準の高い大学に於いてはなおさら)、けれど、僕は全くそうは思わない。
音大を経て、では例えば企業に就職して、それが音楽関連の企業であった場合はまださておくとしても、そうでなかった場合、音大に進んだことは果たして「遠回り」だったのだろうか?例えばベートーヴェン後期の"巨大な"作品を時間をかけて練習し、もがいて、もがきながらも自分なりにかたちにして、そうして“体感”することの出来たあの感覚、考えたあの月日、それは、のちの人生でその作品を再び弾く機会の有る無しに関わらず、人生のあらゆる場面において役に立つ価値のあるものではなかった?作品を、実際に弾いてみる試みのうちで"直に"触れることのできた、ベートーヴェンの残してくれた偉大なメッセージは、今日という日にも明日という日にも沢山の彩りを与えてくれる、普遍的なものではなかった?

一見実用的でない芸術は、時に実用書にも勝る教訓を私達に与えてくれる、と信じているし、僕にとっては常にそうであった。「人生とは、このようなものであろう。」と明示された、ある具体的な助言の一節と比べてはるかに具体性を持たない、いくつかの音の連続が、しかし(その頻度は保証できないけれど)何故だか強烈な肉感を持った教訓として、心に直に響いてきたという経験を数えきれぬほどしてきた。それが自分の生き方を変えてしまうことだってあった。
好きな詩は、朗読してみると尚よい、という。好きな楽曲も、やはり、もし楽器を弾けるなら、弾いてみるとよい。そうして好きが高じて、次第にひとに伝える技能を身に付け、ひとに伝えたいという欲求もあり、演奏を仕事とできたなら、それだってよいし、そうでなくたって、人生は、音楽により本来は豊かになる一方だ。

と、以上ここまで、半分は綺麗事で、ありますがでも、そもそも言葉というものは世の中のゴタゴタを、まったくゴタゴタしていて手に負えないもんで困った、でも、どうにか整理して綺麗に見せてみよう、そんな特性を元来持ったものだとも言えるでしょうし、その言葉の特性に僕は幾度となく救われてきた、ですからそんな言葉の偉大さに免じて一旦ここらで、ある意味での"よし"として頂けませんでしょうか。続く。

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