身体性と思想性の連関について

身体性と思想性の連関について

スポーツマンは馬鹿か、という問いがその昔自分の中に湧き起こった時期があって、そしてそれへの答えは「明らかに否。」であった。

中学時代に憧れた同級生、この人は凄いと感じていた同級生は多くいたが、その中には運動に優れた人が沢山いて、そしてその人たちはどうやら身体の動きが機敏であるに見合った分だけ頭の回転も機敏だったのだ。まったく、頭良いなぁと思っていた。学校の通信簿が良いかどうかにはここでは因らず。そもそも通信簿というのはこの世界の多元的な指針のうちのあくまで1つで、単次元座標に取ったかのようにそれが頭の良し悪しをきっぱりと示すとはもちろん思っていない。


さて音楽について話そう。
ピアニストというのは、実際的にはある程度肉体的な職業であるがしかしながらその本質は(本質とは何か等と決して定義などできないのであろうが詰まるところ最終的に伝えることとなるメッセージであるということと今はしよう)思想である。というのが一般的な認識であろうし僕にとってもそうであった。ピアニストが人々に伝えるのは決してその「運動感」ではなくって何らかの思想であると。だから"テクニックばかりはなくて"、何某かのメッセージを伝える為に演奏しようと、目指し、気を付け、ここ数年を生きてきた。しかしそれを長いこと願い続けていると、不思議なことにフッとある時、思考が180度別の地点へ着地して全く新たな仮説が生まれた。

それはつまりこういうことだーーーそもそもピアニストの思想を推し進めているのは技術なのではないか。技術で思考をする。身体性を介して音というものについて思索する。それを生業にしているのがピアニストなのではないか、と。


ラフマニノフの大作を舞台で弾いて沢山汗をかき(と文字に書くとなんだかちょっとばかみたい)、その後に自分の心の中に強く残るのは何かと考えてみれば、それは身体的な何かではなく結局いつもひとつの思想でありひとつの"印象"であった。30分間、汗水垂らして指/全身を動かして体感し得た、あの、あぁラフマニノフだなぁという印象。それがもし、いとも簡単に実現可能な音符で書かれていたらその感覚は得られるかと考えると大いに疑問である。しなやかな手首を持たずしては弾きこなせないショパンのそのしなやかな音楽の印象だって、独特な指遣いを駆使しなければ弾けないシューマンのピアノ曲のあの独特な印象だって、そうだ。またある作品について脳内であれこれ思惑する際にも、その時の"身体の感じ"は、僕にとっては必ず同時に頭の中に思い浮かべずにはいられない要素として、常に存在している。つまり、技術と音楽的印象との間には最終的には実はほとんど誤差がないのではないか、というのが今回の僕の仮説であり、とするならば、音楽家の思考の発展に寄与するものの一つは明らかに、身体性の蓄積ではないか。
ーーーところでだ。では弾くことでようやく体感できる印象というものが存在するのならば聴衆と奏者は一生同じ感覚を共有できないのかーーーかなしいかな、僕はそうであると思う。聴き手と弾き手の間に大きな矛盾がいつも立ちはだかっている。「どうか何かを伝えよう」と悪戦苦闘し最後には強く"願う"のはそのためだ。演奏が容易で無いのは、そのためだ。

逆に言えば音楽をみずから"ひく"意義はそこにある。1つの曲を、指遣いを考えて考えて、覚えられなくって四苦八苦、何度も練習して、ようやく身体に入った5分間の楽曲。その5分間の価値というのは、例えば1冊の素晴らしい本から得ることのできる学びに何ら引けを取らぬ、その人の価値観に影響を与える可能性すら秘めたひとつの財産である。


ところで僕はよく携帯電話にとりとめのないメモを残し、基本的にはそのままどこかへ散らかって無くなってしまうのだが、その昔の個人的メモの中から、芸術と呼ばれるものの分類を試みて書き留めた一節を最近奇跡的に発掘して、それも理由の1つに今このノートを書いている。そこではひとまず代表的と思われる芸術(文学/美術/音楽)を身体性の低いものから順に並べて分類して記している(昔の自分、よくやった、そのまま引用しちゃえ!)。

芸術のうち、抽象度の大きい分野ほど身体性も増す(つまり具体的であるほど身体性には寄らない)。具体的な方から順に言えば文学→絵画→音楽で、歴史の変化もこの左側から先に起こる。身体性に寄った芸術は変化に身体的制限を伴うので変化が鈍く、純思考的な芸術の素早い変化を後から追って補完する形を取る。たぶん。

それで、芸術の抽象度と身体性の相関が何故そうなるのかについては結局僕は分からぬままなのだが、確実に言えるのは、高度に純思考的(highly cerebral)な芸術(文学)や哲学がある一方、その思考媒体が身体に寄っている芸術もあるということ。それは芸術の優越の話ではなくもちろん種類の話なのだけど、身体で思考する、という、ちょっと言葉にすると不思議だけれど、そうした現象があるということだ。

その身体性にはもちろん物理的制限があり、だからこそ僕は、もっと純度の高くて、思考の世界の中を自由自在に飛び回ることのできる文学というものに強く憧れるわけだけれど。。。でも逆に、もしも文学家が音楽家に憧れてくれる例があるとするならば、きっとその反対の理由があるのだろう。


さて、あるピアニストがベートーヴェン最後の3つのソナタを、人生の円熟期になって、遂にその核心に迫る演奏をするに至った場合に、そのピアニストの思想を押し進めたのは何か、と訊かれれば、その人がうんと考えたから、のみでは決してなくって、やっぱり、身体を使って弾き込んだから、でもあるのだと最近思う。何十ページもある1曲のソナタを、分析し考え俯瞰するという純思考的プロセスにのみよって、その全貌を手に取るように理解することには最終的には限界があり、実際にはその作品のもつ20分という時間を何度も(せっせと手を動かして)"体感"するほかないのではないか。演奏家というのは偉大となればなるほど彼らの精神は純思想的な方向へと向かってゆくように、一見思えるが実のところは、それは身体的感覚の繰り返しによって思考が為されたに過ぎない面があると思う。


そこで、今回僕から提言し、自分自身への戒めとしても心に留めておきたい文言をひとつ。「体得は知である」。1日10時間を練習に費やしてしまった1日は、日常を無駄にした1日だったのだろうか?否。思想から逃げ肉体疲労のみに浪費した1日だったのだろうか?否。体得は知であり、技術の基礎練習に費やした多くの地道な時間であっても、それがのちにひとつの高度な哲学へと昇華し得る。
で、ありますから、今日も恥ずかしがらずに沢山の練習をしよう。自己の身体を存分に割いて、素晴らしい作品を(すなわち思想を)身体性によって体得しよう。身体が覚えてしまうまで繰り返した偉大な作品は、そのままあなたの精神の糧になっている。

あ、でも。今日も明日も気の許すまで、沢山弾いたらよいけれど、無駄な練習はしないでね、そしてもちろん、日によっては、沢山頭で考えて、沢山遊んで、そして、またある日には沢山寝よう。

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ピア二ストの務川慧悟です。