小さな秋に寄す

秋は小さな季節ですから、今年もまた、早くも秋が終わりを迎えてしまおうとしています。

ところで、秋という季節は、余りにも美しくなかろうか。食欲の秋。読書の秋。。。ええい!そんな具体的な形容は、今は一旦置いておこう!1年のうちで最も不可思議に自然が色付く秋は、曖昧で、遠い夢を、私たちに多く見させてくれる。秋はどうしてこんなにも美しいのだろう、不思議で不思議でならぬと思ったいつかの僕は、「桜は散るから美しい」という例の規則を紅葉の方にも当てはめて、ひとまず一件落着とした。

秋の美しさに理由なんていらない。というのが本来は筋といったところだが、でも長く厳しい冬を前に一旦は散らねばならぬ葉が、その最後の姿として最高の輝きを放つというのは、言うなれば自然の摂理なのかもしれない。作曲家の晩年の作品には秋の終わりを感じることが多々あって、ベートーヴェンのOp.110やショパンの舟歌のコーダにおけるあの高揚感もその例か。
「散る間際に葉は黄色く・赤く色付くことができる」。そのように世界を作り給うた神は、又は科学の法則は、何たる芸術の天才だろう。


そんな美しい秋には、思う事が多い。はずなのだが、今年はそうもいかなかったのだ。先日のコンクールの準備に明け暮れる日々の中で、僕は次第に日常から遠ざかっていった。演奏における細かな技術とニュアンス、という、具体的な事柄の追究ばかりで日々が埋められていった。コンクールが始まってある日の朝、久々に、全ての必用事を忘れ心を無にして公園を歩いた。木々は僕の知らぬうちに色付きを増し、秋の中でも最も美しい時期が、そこにはあった。すなわち、1年のうちで最も涙ぐましいあの瞬間が、今まさにそこに訪れていたのです。僕は、かけがえのない秋を素通りしかけている自分を悲しく思って、ふと目に留まった足元の落ち葉を一葉、持ち帰り、コンクールの間中ずっとピアノの上に置いていた。音楽の中に、どうか秋を忘れぬよう。
そいつは今では干からびて、ただの黄色の皺くちゃになってしまった。僕も落ち葉もなかなか頑張ったもんだ。

余談だけれど、サン=サーンスのピアノ協奏曲第5番の第1楽章は、僕の中では昔からどうしたって「ある晴れた秋の一日」なんです。秋にあの音楽を弾けてよかった。まあ演奏当日、天気はどしゃ降りだったけど。


さて、四季のうちでダントツで好きなのは秋だとするならば、ダントツで嫌なのが冬だ(冬さんごめんなさい)。長く厳しい冬を前に最後の輝きを見せてくれる秋がいなければ、僕はどうやって毎年の冬を乗り越えて来られただろう。
だから今年も、そんな小さな秋に、大きく感謝して、どうにか冬を乗り切ろう。


P.S. 思い付いた、美しきダジャレを一編。

紅葉に、高揚する秋。

……うん。
では、また

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スペインと、

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パリと、

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ドイツの秋。

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