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あたらしい憲法のはなし~七 基本的人権

新憲法ができたばかりの頃、政府は新憲法をどう思っていたのでしょうか。

当時の文部省が、中学校1年生用の社会科の教科書として発行した『あたらしい憲法のはなし』を少しずつ、じっくり読んでいきたいと思います。
太平洋戦争終結後の1947年8月2日に発行されたものの、1950年に副読本に格下げされ、1951年から使われなくなったそうです。

全部で十五章ありますので、一章ずつ青空文庫から転載していきます。
今回は第七章『基本的人権』です。
(まとめ部分を太字にしました)


七 基本的人権

 くうしゅうでやけたところへ行ってごらんなさい。やけたゞれた土から、もう草が青々とはえています。みんな生き/\としげっています。草でさえも、力強く生きてゆくのです。ましてやみなさんは人間です。生きてゆく力があるはずです。天からさずかったしぜんの力があるのです。この力によって、人間が世の中に生きてゆくことを、だれもさまたげてはなりません。しかし人間は、草木とちがって、たゞ生きてゆくというだけではなく、人間らしい生活をしてゆかなければなりません。この人間らしい生活には、必要なものが二つあります。それは「自由」ということと、「平等」ということです。
 人間がこの世に生きてゆくからには、じぶんのすきな所に住み、じぶんのすきな所に行き、じぶんの思うことをいい、じぶんのすきな教えにしたがってゆけることなどが必要です。これらのことが人間の自由であって、この自由は、けっして奪われてはなりません。また、國の力でこの自由を取りあげ、やたらに刑罰を加えたりしてはなりません。そこで憲法は、この自由は、けっして侵すことのできないものであることをきめているのです。

 またわれわれは、人間である以上はみな同じです。人間の上に、もっとえらい人間があるはずはなく、人間の下に、もっといやしい人間があるわけはありません。男が女よりもすぐれ、女が男よりもおとっているということもありません。みな同じ人間であるならば、この世に生きてゆくのに、差別を受ける理由はないのです。差別のないことを「平等」といいます。そこで憲法は、自由といっしょに、この平等ということをきめているのです。
 國の規則の上で、何かはっきりとできることがみとめられていることを、「権利」といいます。自由と平等とがはっきりみとめられ、これを侵されないとするならば、この自由と平等とは、みなさんの権利です。これを「自由権」というのです。しかもこれは人間のいちばん大事な権利です。このいちばん大事な人間の権利のことを「基本的人権」といいます。あたらしい憲法は、この基本的人権を、侵すことのできない永久に與えられた権利として記しているのです。これを基本的人権を「保障する」というのです。
 しかし基本的人権は、こゝにいった自由権だけではありません。まだほかに二つあります。自由権だけで、人間の國の中での生活がすむものではありません。たとえばみなさんは、勉強をしてよい國民にならなければなりません。國はみなさんに勉強をさせるようにしなければなりません。そこでみなさんは、教育を受ける権利を憲法で與えられているのです。この場合はみなさんのほうから、國にたいして、教育をしてもらうことを請求できるのです。これも大事な基本的人権ですが、これを「請求権」というのです。爭いごとのおこったとき、國の裁判所で、公平にさばいてもらうのも、裁判を請求する権利といって、基本的人権ですが、これも請求権であります。
 それからまた、國民が、國を治めることにいろ/\関係できるのも、大事な基本的人権ですが、これを「参政権」といいます。國会の議員や知事や市町村長などを選挙したり、じぶんがそういうものになったり、國や地方の大事なことについて投票したりすることは、みな参政権です
 みなさん、いままで申しました基本的人権は大事なことですから、もういちど復習いたしましょう。みなさんは、憲法で基本的人権というりっぱな強い権利を與えられました。この権利は、三つに分かれます。第一は自由権です。第二は請求権です。第三は参政権です。
 こんなりっぱな権利を與えられましたからには、みなさんは、じぶんでしっかりとこれを守って、失わないようにしてゆかなければなりません。しかしまた、むやみにこれをふりまわして、ほかの人に迷惑をかけてはいけません。ほかの人も、みなさんと同じ権利をもっていることを、わすれてはなりません。國ぜんたいの幸福になるよう、この大事な基本的人権を守ってゆく責任があると、憲法に書いてあります。


あなたは、これを読んで何を感じましたか?
そして、何を思うでしょうか。

自民党草案では

基本的人権の三つの権利と民主主義

「基本的人権の享有を妨げられない。」が
「基本的人権を享有する」になりました。
「妨げられない」とはもちろん国家権力に、ということですが、それが省かれたのです。

また、この人権は、「現在及び将来の国民に与へられる」ものでしたが、この記載もありません。

さらに、国民はこの人権を濫用してはならず、「公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ」のが現行憲法であるに対し、自民党草案では「義務が伴うことを自覚し、公益及び公の秩序に反してはならない」とされています。

結局日本に民主主義が根付かなかったということなのだろうかと嘆息するのです。基本的人権は「自由権」と「請求権」と「参政権」の三つであり、これを責任をもって使わなければいけないのですが、日本人はこれをちゃんと使ってきただろうか、と。
大事な宝をもらっても、それをカギもかけずにほったらかして誰かに持っていかれても気づかないようでは、後から自分のものだと言っても取り戻すことはできません。

会社とお客さまの関係であれば、自分が困ったときだけクレームを言い、自分に都合がよければそれでよしとしてもよいでしょう。会社はターゲットとなる客の希望に合わせ、それ以外の客の要望は切り捨てます。しかし、会社は幾つもあるので、別のサービスを提供する会社を、客は選ぶことができます。

しかし、自分の住む国は一つしかありません。人のクレームが受け入れられないならば、自分のクレームも受け入れてもらえなくなっていくのです。自分はマジョリティの中にいるからといって、クレームを言う人(困っている人、弱い人、他と違う人)を切り捨てていくなら、マジョリティの定義はどんどんせばめられていき、マジョリティから自分がはみ出してしまったときにはじめて、自分たち自身がマジョリティをせばめていたことに気付くのでしょう。

私は他人の「自由権」を守ってきただろうか。親はわが子に、「自由権」を教えてきただろうか。「自由権」の行使と、わがままの違いをみんなわきまえているだろうか。

請求権」を使うべきところで、それを飲み込んでしまわなかっただろうか。「自分さえ我慢すれば…」それは本当に美徳だろうか。単に自分が立ち向かう困難から目を逸らし、もっと問題を大きく根深くしてしまったのではないか。

「参政権」の意味を考えず、自ら放棄してきたのではないか。
しっかりとこれを守って、失わないようにしてゆかなければなりません
そんなことをしなくても誰かがやってくれる、政治家は国のために働いているんだから何も言わなくてもそれほどひどいことにはならないだろう、などと勘違いしていなかったか。

このように考えると、本当に、反省しきりです。

尊重の対象は、個人から家族という単位へ

最後に、自民党草案に表記の件として新設された文言をご紹介しておきます。

第二十四条 家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない。

ほんの何十年前までは民事不介入の原則で、夫に妻が殴られ蹴られようとも警察は家のドアを開けることもできませんでした。妻は殺されるまで何も言えなかったのです。それが、DV法ができて少しはましになったところでした。
また、いい年になっても結婚しない人や結婚しても子どもを産まない人は白い目で見られていましたが、今では「マリハラ」と言われ、虐待と認識されるようになりました。

が、改憲されれば大きく後退します。

「社会の自然」とはどういう意味か全く分かりませんが、家庭を基礎的な単位として捉えたいという意図は明白です。この「家庭」とは強いお父さん、優しいお母さん、素直な子どもで構成された「美しい家庭」のことでしょう。このような理想を持っている党が、同性婚や夫婦別姓などを認めるべくもありません。

その昔、満州に満蒙開拓青少年義勇隊の日本人男性がたくさん送り込まれた頃、尊い日本人の血統を中国人女性と子をなして汚すことのないよう(!)「自ら進んで血液防衛部隊とならねばならない」として日本の各地域から割り当てられた人数の女性が「開拓女塾」へ送られましたが、いまだに考え方はそれほど大きくは変わっていないようです。
(ちなみに「自ら進んで」とはリクルートする側に伝えられていたことであって「開拓女塾」へ行かされる女性は「国のためなんだ」「素晴らしいことなんだ」としか聞かされていなかったことが多いようです)

現行憲法では「個人」が尊重されますが、草案のように家族が社会の単位として「互いに助け合わなければならない」とされたなら、引きこもりや児童虐待や老人介護は社会の問題ではなく家庭の問題になり、その保護者が全責任を負わされることになるでしょう。
今は、家族がいても何らかの事情で面倒をみれない場合は生活保護を受給できます。しかし改正後は認められず、家族が面倒を見ざるを得ないでしょう。これは、虐待から逃げてきた妻や子どもには地獄で、生活力がなければ家族である虐待者から逃げられないことを意味します。そのような人たちがいるとは思いもしない人から見れば、自分たちが納めた税金を不当に使われることがなくなったように感じられるかもしれません。軍事費を2%にするならその5兆円で福祉を!という声もありますが、生活保護も介護費用も削減でき、老人ホームを作る必要も減ることでしょう。

こんな未来を望みますか?

世界や自分自身をどのような言葉で認識するかで生き方が変わるなら、敬意を込めた敬語をお互いに使えば働きやすい職場ぐらい簡単にできるんじゃないか。そんな夢を追いかけています。