はじまりはありがとう
時に、死にもつながるいじめ。
私の敬愛する庵忠名人から、またも考えるきっかけを頂戴した。
私がいじめによる自殺事件に対して、刑事事件にすべきではとコメントしたのに対し、名人は自浄作用が必要だと書かれた。
自浄作用とは強制されてできるものではない。かといって、放っておけばできるものでもない。
例えば、子どもが相手をぶって泣かせてしまったとき、大人に取り囲まれて「お前が相手をぶったんだろう!正直に言え!!」と怒られるのと、
母親の膝に抱えられながら、「何があったの?」と優しく聞かれるのと、
どちらが深く反省できるだろうか。
これは大人でも変わらない。
自分に石を投げてくる相手の前でも反省できる人間は少数だ。
静かに内省するためには、安心できる場や信頼できる人間が必要だ。
だから、自分なりに、この問題について、何ができるか、考えてみた。
子どもに罪はないのか
大人が同じことをすればハラスメントでも子どもが行えばいじめと名を変え、あたかも気にするほうがおかしいという扱いを受けることすらある。
それは、おそらく、下記のような理由があるからだろう。
①悪気はない
②育っていく途中の傷だから、時間がたてば忘れる
赤ん坊がジュースを蹴飛ばして倒したなら、そんなところに置いておいた大人が悪いということにもなろう。
だが、人間関係を築くうえで、相手を傷つける行為を見逃すなら、それはいじめる側、いじめられる側、双方の人権を無視している。
子どもは、社会性を身に付ける機会を奪われ、大人への信頼を損なうことになる。
子どもが強制的に人間関係を作らされる場所と言えば、それは学校であることが多く、否応なくいじめの多くも学校が舞台となる。
そんな中、たとえいじめが、被害者の自殺という最悪の事態につながったとしても、学校からは加害者を擁護するようなセリフが出てくることがある。
それは①②が正しい限り、自殺するようなケースこそが例外だからだ。それさえなければ、それは例外だと言えれば、①②のままで通用する。
つまり、①②のままでないと困るのではないか。
誰が?
教師が。
教師に罪があるのか
もし、①②が通用しないことにでもなれば、両方とも教師の介入が必要になる。
教師は、いじめに介入しなければいけなくなり、取り返しのつかない傷にならないように未然に防ぐか、癒す手当てが求められる。
では、それができるのか。
いじめは、少なくともはじめのうちは、教師に見つからないように行われることだろう。
どうにもならない状態になってから気づいた教師は、「あと数カ月のことだから」と見てみぬふりをするかもしれない。だって自分ではどうにもならないのだから。普段の仕事が暇で暇でしょうがないという教師はあまりいないだろう。日々の授業もあれば部活もある。テストも作れば採点もしなければらない。それに加えて、こんな大きな業務が降ってわいたら通常業務が回らなくなってしまう。そう考える教師がいても不思議ではない。
では、傷ついた子どもに対してできることはあるだろうか。
教師はカウンセラーではない。
下手なことをすれば、より傷を広げかねない。
「そんなことよりも、いじめをやめさせろ」とできないことを言われるのが目に見えているから、何も言えない。
教師という立場上「お子さんがいじめられているけど、何もできないから転校したほうがいいですよ」とも言えまい。
「学校だけが子どもの居場所じゃない。いじめている子ども、いじめられている子どもの親だって何かできるはずじゃないか」なんて言おうものなら、多くの親が学校にクレームを寄せることになり、正常な学校の運営自体、危ぶまれることになるかもしれない。
つまり、①②は言い訳であり、本音は違うところにある。
上記から導き出されるその本音は
教師には何もできない
ということだ。
いや、手の打ちようがあるはずだ。
うちの学校はこういう対処をしている。
そう言いたい人もいるだろう。
しかし、効果的な対策を思いつかなかったことを責めることはできない。
そして、もし有効な対処法があったとして、それが情報として共有されていなければ、その情報は無いと同じだ。
組織としての学校
以前、別のブログで、児童相談所の対応について書いたことがある。
基本的には、このときから私の考えは変わっていない。
閉じた関係は、淀み、いつか膿む。
私は長らくコールセンターで働いていたが、電話は密室になり得る。
周りに大勢の同僚のがいても、何を話しているかはオペレーターと客にしか分からず、手抜きをしたいオペレーターが企業として許されない対応をすることもあれば、不当な利益を得たいクレーマーがオペレーターを脅すこともある。
そうならないように、適度にモニタリングを行い、声をかけ、そこは密室ではないとオペレーターに知らせる。
クライアントとセンターの関係も同様である。
なるべくセンターに仕事を任せ、関わりたくないと思っているクライアントには相談ができず、それは応対品質に影響し、顧客満足度は低下する。
話はコールセンターに限らない。
不正をしている企業はそれを隠し、社会とは別の法律が罷り通っている。
情報を適切に公開し、社会の中の一員として、社会に貢献し、社会に支えられているという認識を持つ会社で不正が発覚すると、なるべく早くそれを発表するのとは対照的である。
健全な開かれた会社であれば、取引先とも健全な関係を築き、企業としての責任を越えたならば、労働基準監督署であれ警察であれ、適切に連携を取ることだろう。
学校が開かれた組織であるならば、例えば父母が学校との話し合いに弁護士の同席を求めたならば、喜んで受け入れるだろう。
悪い点があれば改善しよう、悪くないならそれを知ってもらおうと思っているなら、弁護士が来てもなんら身構えることはない。守秘義務を持つ弁護士に子どもの情報を伝えることに問題はない。
健全な組織
健全な組織では、血液が循環している。
組織の動脈が方針、指示、命令なら、
組織の静脈は報告、連絡、相談、である。
そして、責任の所在が明確であり、実行責任と指示責任に分かれている。
いじめによる自殺。何度も記事で見た。そしてまた、いじめによる自殺があった。文春のスクープでそれは明るみに出て、私は庵忠名人の記事でそれを知った。
悲しいことだ。
だが、今、学校は、加害者は、その悲しい事実と向き合えているだろうか。
嫌がらせの電話やメールの対応に時間を取られ、大切なことに時間を割くことができない状況ではないだろうか。(本来なら心からのサポートを受けるべき被害者の家族まで、そのような状況になっていないか、心配だ)
どんどん、保身に走らせて責任逃れをせざるを得ないように追い込まれてはいないだろうか。
教育委員会は、この学校のことを知っていたのだろうか。
相談できる関係性だったのだろうか。
校長や教頭を懲戒免職にして終わりというようなことにはならないだろうか。
似たような状況に陥っている学校がないか調べ、いじめを見つけ、自殺を防ぐ具体的な対応策を誰か考えているだろうか。
職員室は、いじめの多い職場とも聞く。
いじめ、いじめられることでなんとか学校を守っている教師に、更なる責任を負わせることが、子どもをいじめから救うことにはならないだろう。
学校が抱え込めないことまで、抱え込んではいないだろうか。
抱え込めないことも「聖職者なんだから当然」「俺たちだって頑張ってそこをくぐり抜けてきたんだから」と周りが見てみぬふりをしていないだろうか。
これからを良い方向へ結びつけるために
いじめられっ子が不登校になったら、いじめっ子も不登校になってしまったという話もある。
今回、いじめた側の生徒は、「特になんとも思わなかった、いじめたとも思ってない」と発言したとも聞く。
・生まれつき、ここまで共感能力が乏しいなら、発達障害の可能性もあり、医療機関につなげなければいけなかったのではないか
・この生徒自身が心に深い傷を持ち、自殺した生徒よりもひどい扱いを受けてきたんだという認識を持っている可能性もある
・軽い気持ちで始めたことが、集団心理でエスカレートしていき、どうしようもない中で大きな事件につながってしまったという事実を受け止めきれないのかもしれない
なぜそのような発言になったのか、ネットで記事を読んだだけの私には分からない。その原因を探り、いじめた側の生徒に自分の責任を自覚させるためには、身近な人の正しいフォローが必要だ。
単にひどいと騒ぎ立てることは、文春の売上にはつながっても誰一人救われない。
その学校の教頭は「1人の被害者のために10人の加害者の未来を潰していいんですか?」と言ったそうだ。
本当に教頭が10人の加害者の未来を考えているのであれば、この10人にやるべきことをまずは考えるべきではないか。このままで社会に送り出すなら、それこそ、この10人の前途をつぶしてしまう。そしてもっと多くの被害者を生み出さないとも限らない。
教頭が言うべきことは、「1人の被害者をいなかったものとするのではなく、この事件を10人の加害者と一緒に考えることが教育者としての責務だ」である。
誰ひとり敵ではないし、誰か一人の責任でもない
通り魔殺人であれば、その犯人さえ捕らえれば一件落着かもしれない。
しかし、学校で起きた事件ならば、それまでの日々の積み重ねと人間関係が絡んでいる。誰か一人の、一つの行動が問題と考えると、安直な答えに飛びつくことになる。
このような事件があると、当事者は被害者を責め、外部は加害者を責めるという光景がよく見られる。
当事者にしてみれば、100点満点ではなかったにしても、日常生活が送れていたのに、被害者のせいでそれが一変してしまうことになる。水に入れられたカエルが茹でられても逃げもせずに死んでしまうのと同じで、日々の変化は少しずつなので、自分の置かれた環境の異常性に気づかない。被害者は最初に死んだ最も弱いカエルだが、それは鉱山のカナリヤだ。
第三者にしてみれば、異常な状況だけを突然見せつけられ、自分には加害者としての負い目も、それを見てみぬふりをした負い目も何もないので、被害者に共感しやすく、何も言えない被害者に代わり声を上げたくなる。
しかし、現実は映画ではない。
正義のヒーローは悪の手先を八つ裂きにして拍手喝采を受け、見ている観客はすっきりするが、現実の場面にいるのは、どちらも弱い人間にすぎない。そして、見ているのは観客ではない。その加害者と、同じ社会を共に生きるのだ。10年後には、あなたの会社の新入社員として、あなたの席の隣に座る可能性だってある。
被害者が自分の娘だったら、と考えるように、
加害者が自分の息子だったら、
教師が自分の友人だったら、と考えてみよう。
自分の息子が加害者になるはずがない。
そう考える親は多いだろう。
それならば、加害者の親が、自分の息子が加害者であるはずがないと否認したとしても、その気持ちを理解できるはずだ。
理解できなければ責めることしかできない。
責めることからは断絶しか生まれない。
理解してこそ、共に考えることができる。
しかし、理解するには心の余裕が必要になる。
被害者にそんな余裕を要求することはできない。被害者は自分のことで手一杯で、自分の身に起きたことを受け入れるだけでもサポートが必要な状況なのだから。
そして、加害者にも、余裕がないか、能力がないか、もしくは両方ともない。だからこそ、加害者になるのだから。
庵忠名人は、その記事、『無知の知』の中で、以下のように書かれている。
「知らない」よりも罪深いのは、「知らないことを知らない」こと。
ネットでどれだけの情報が出回ろうと、文春が何を書こうと、当事者の気持ちも考えもそこまでに至る経緯も、何も「知った」ことにはならない。
「知らないことを知らない」で、知ったつもりになってはいけない。
だから第三者が行うべきことは、理解することだ。理解しようと努めよう。
いつか、ありがとうと言える日が来ることを目指して。
世界や自分自身をどのような言葉で認識するかで生き方が変わるなら、敬意を込めた敬語をお互いに使えば働きやすい職場ぐらい簡単にできるんじゃないか。そんな夢を追いかけています。