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「寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか」~読書感想文#36

今回ご紹介するのは中公文庫『五つの証言』という小さな本の中の「寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか」という渡辺一夫が書いた章だ。戦争と平和の問題について深く考えさせられる作品であり、渡辺氏は、寛容とは何か、不寛容とは何か、そして寛容と不寛容の間の関係や緊張をどう解決すべきかというテーマについて、歴史的な事例や哲学的な議論を交えながら論じている。

表題の問いに対する渡辺の結論は、「寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容たるべきではない(P186)」である。

それでも、歴史は繰り返し不寛容に対して不寛容になってしまうことが事実としてある。渡辺も「最低の暴力(P191)」を否定するものではない。しかし、だからしょうがないと流れに身を任せるのではなく、「こうした悲しく呪わしい人間的事実の発生を阻止するように全力を尽くさねばならぬ(P186)」と述べる。
そしてその武器としては「ただ説得と自己反省しかない(P187)」。相手が暴力を振るい銃を突きつけてくるのに、説得と自己反省でどのように戦うというのか。それに対し渡辺は「常に無力であり、敗れ去るものである(p191)」としつつも「説得のチャンスが皆無ではない(同)」と光明を見る。これは私の理解で言い換えれば、自分は死んでもいいと言っているのだ。何人殺されても、説得できる人間が一人でも残っていれば、人類に可能性があるということだ。

人間は、時に人を傷つけ、その信頼を裏切る。そんな相手に対し、殺したいほど憎いと思うこともあるだろう。実際にそれを行動に移すことすらある。
また、世の中には自分さえよければいいという人もいる。そういう人の周りには、似たような人ばかりが集まる。そこに信頼関係はなく、共通の利益がなくなればすぐに敵へと変わる。
それは、家庭の中でも起こり、国家間でも起こる。

不寛容に対して不寛容であり続けるならば、その先にあるのは破滅でしかない。現在行われているロシアとウクライナの戦争にせよ、いずれはどちらかが勝つのだろう。そのとき、人を殺して生き延びたことを、その人は一生忘れられまい。一方で子を失った母親の悲しみは、戦争で勝とうが負けようが癒されることはない。
戦時中を知っている人がどんどんすくなくなっている日本でも、いまだ戦勝国へのアンビバレントな思いが渦巻いている。中国とアメリカの緊張が高まる今、戦時中に書かれたこの小文は一読の価値がある。

最後に印象に残った文章を引用しよう。

現存秩序の維持に当る人々、現存秩序から安寧と福祉とを与えられている人々は、その秩序を紊す人々に制裁を加える権利を持つとともに、自らが恩恵を受けている秩序が果たして永劫に正しいものか、動脈硬化に陥ることはないものかどうかということを深く考え、秩序を紊す人々のなかには、既成秩序の欠陥を人一倍深く感じたり、その欠陥の犠牲になって苦しんでいる人々がいることを、十分にわきまえる義務を持つべきだろう。

(p190)

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世界や自分自身をどのような言葉で認識するかで生き方が変わるなら、敬意を込めた敬語をお互いに使えば働きやすい職場ぐらい簡単にできるんじゃないか。そんな夢を追いかけています。