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『竜とそばかすの姫』を観ました。

ちょっと見るのが怖くて見れない作品がある(『ゲド戦記』とかも)。『竜とそばかすの姫』もそれがあって映画館には行かなかった。

同じ理由で『未来のミライ』も配信で見れるにも関わらずまだ見ていない。そんな私は『バケモノの子』まではちゃんと映画館行って見てました。

せっかくの美しいアニメーションなのでDVDでなくブルーレイで見て、見終わって本当に細田監督が心配になってしまいました。主人公すずの置かれた立場ってのが、今の細田監督が置かれている状況に思えたのです。

脚本が致命的なのはもう多くの人が言っているので、今更言う必要はないでしょう。かろうじてすずは描かれていますが、それは主人公なんだから当然として、すずのお母さんお父さん、すずの一番の友人、すずの好きな人など、出てきた登場人物は、普通に一回見ただけでは「どういう人だったの?」と印象に残らなかった。作り手は描いているのかもしれないが、見た人が残らないのであれば、残念ながら「印象に残らなかった」ということになってしまいます。

もちろん「ちゃんと描かれている」と言う人はいるでしょう。そういう人は絵の小さな動きも見逃さず、その意味を読み取れる人だと思います。なんとなく見るような人はたくさん想定できるし、アニメを見るのに慣れていない人は、そんなに多くの情報を一瞬一瞬で読み取れないのでした。

私は中村佳穂が今作以前から好きで、歌のシーンは夢のようでした。絵と動きと音楽との、とんでもなく心を持ってかれる体験でした。今作は唄でかなり補われている、救われている作品に感じます。
映像のテンポは素晴らしく、はじまってからのタイトルまでの心地よさで、一気に作品に引き込まれました。
(あと、高知在住なので、高知の場面が美しくて感激しました。終盤の車道ごしに向き合うシーンとか最高に大好きです)

映画は一人でできないし、まずはお金を出してくれるとこがないと商売になりません。作品であると同時に商品でもあります。
脚本が問題視されているのは細田監督はわかっているに決まっているし、それを「あえて脚本家を使わない方向に進んだ」のか「どうしようもなく脚本家を使えなくなった」のかはわかりません。
お金を出した側からすると「商品としてヒットして儲かりたい」ってことで、それなら、『できるだけ少ない人数、少ない工程、短い期間、少ない製作費で作品を作って、それをできるだけたくさん売りたい』ところです。
作り手はそういう周りの雑音を聞いて、さらに見る側の要望にも応えないといけないのですから、通常の精神なら壊れるくらいの場に立たされているように想像します。

「私の作品を必要としている人がどこかにいる、だから私は作るのだ」などと作り手が言い出したら、私はちょっと心配になります。
そういう大義名分がないと作れないくらいに、心が病んでしまっているように感じるのです。

今作ですずがある少年を助けに行きますが、そこまでする根拠がわかりませんでした。困っている誰かを助けることによって、自分の存在を確認しているのであれば、それは相手ためでなく自分のためにやってることだったりします。
「こんな私だけど、困難に陥ってる人に助けになってるんだから、これからもやっていっていいよね」とかいうメッセージを発していたのであれば、そんなのは壊れかけた作り手の、ただの悲鳴にすぎないと思ってしまいます。

作品には赤裸々に自分の精神状態がでてしまうと思う。なので今作は細田監督の作りたいものであったのかが少し疑問で、周りから「こうして下さい」「この方がウケます」「こういうシーンが欲しいです」などと言われて、そんな中で細田監督なりの落とし所が今作だったのかもしれません。

ずすが大きな行動する時に、何故かまわりの人は見てるだけでした。「かんばれ」とか「見守っている」とか言ってるだけで助けたりしません。お話上そのほうが盛り上がるみたいのはあろうとは思います。
でもこの状況って「こういう責任が問われることは、私だけが犠牲になればいい」とか「どうせ肝心な時には誰も助けてくれないでしょ」というのが細田監督の中であったのかもしれません。

こんなこと続けてたら細田監督壊れてしまうんではなかろうか。なにもかも一人で背負って潰れてしまうんではないか。そういう悲鳴みたいなものが出てしまっているような気がして、少し心配になってしまったのでした(余計なお世話ですけど)。

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