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『 テリー・ギリアムのドン・キホーテ(2018) 』この終わり方でよかったのか?(※ネタバレ注意)

なんなのだこのタイトルは、原題は『The Man Who Killed Don Quixote』なので通常なら『ドン・キホーテを殺した男』とかであろう。だが日本で『ドンキホーテ』だけだと確実に「ドンドンドンドンキッ、ドンキーホーテーのドン.キホーテ」しか思い浮かばないことになる。こんなタイトルのつけかたはあれみたいですね。『志村けんのだいじょうぶだぁ』みたいですね。

私なんかはかつて『未来世紀ブラジル』をビデオテープで何度も何度も見た世代なので、この作品は気になってはいました。だからエンタメニュースなんかで「何度も作ろうとして失敗してる」とか「セットが大雨に流されて中止になった」とかは知ってはいました。

私が今作を見た感想としては「テリー・ギリアムさんは今作で何を伝えたかったのだろうか?」でありました。

なにしろ今作は完成まで30年とかかかってたりするので、他の作品よりもハードルが上がってしまっている。ジョニー・デップからアダム・ドライバー(中二病的カイロレンこと)に変わってどうなったか?とか、今度は予算が減ってどう完成させたのか?とか見る側はどうしても雑音だらけになるわけです。
作品としては観る前からかなりのアウェイ(居心地が悪い場所や場違いな 雰囲気 )なのはどうしようもないので、それを踏まえてどうなっていたか。

見終わったすぐに「えー、意外とまともな作品だったなあ」と思ったのは、アダム・ドライバーが飽きさせなかったのと、かつて『未来世紀ブラジル』の主演だったジョナサン・プライスを見れた幸せがあったからかもしれない。でもなんかよくない方の引っ掛かりがあってもう一回見てみました。
そこで気がついたのは「これって何が伝えたくて作ったんだろうか?」でした。

よく作品の最後で大きな悪を倒したり、囚われている人を助け出したりして終わるってのがありますけど、そうなるとなんだか「ああ、この物語も終わったなあ」みたいな気持ちになってしまいます。でもこれってなんとなく雰囲気に押されてしまってるだけってことだったりします。
この物語に出てきて悪人扱いされた登場人物が最後にヒドい目にあう。でもそれで問題が解決したなんて気持ちよく完結するのはヒーローもの(ウ○トラマンとか仮面ラ○ダーとか)ぐらいなもので、子供向けの勧善懲悪ものでなければ「こんなことでこの問題が解決なんてしない」という気持ちがどこかに残ってしまう。物語のゴール(エンド)ってのはそういうものではなくて、この物語が伝えたかったことを伝え終わったところがゴールになるんではないかと、私は思っている。

少し頼りない個人が巨大な相手(現代社会だったり現代の仕組みだったり)を相手に闘う。そういうのはもう『未来世紀ブラジル』という作品でやってますし、『未来世紀ブラジル』では現代社会の矛盾を見事にわかりやすく滑稽に映像化して、それが並んで物語になり、格闘ゲームの連続技みたいになりバシバシ決まり、観る者に深く刺さる作品だったと思うのです。
だから年老いてヒョロっとしたドン・キホーテと、太って背の低いサンチョの組み合わせが巨人と闘ったとしても、どうしても『未来世紀ブラジル』を思い出してしまうし、しかも今作の主人公も『未来世紀ブラジル』と同じジョナサン・プライスです。

そういう見られ方を交わすかのように物語は『ドンキホーテを使ったCM』を監督しているアダム・ドライバーで進んでいきますが、それだったら『現実と架空がわからなくなった男、架空の世界から抜け出さなくなった男の話』となるのかと思って見ていたら、なんだかそれもテーマとして引き立つような描き方には進まず、架空の中で奮闘する男を見せられてしまう。
もちろん表面的には動いているものは思わず目で追ってしまうように見てしまうのではありますが、テーマにヤバいくらい踏み込んで欲しいのに、たいして踏み込まないで終わってしまう。見終わってから「あれっ、私が目で追いかけさせられたものってこの物語の大事な部分であったのだろうか?」と疑問に思ってしまったのでした。

『夢の世界から抜け出す』ってことと『夢の世界の問題を解決する』ってのは逆のことではないかと思うのです。夢の世界から抜け出すのはそこで起きていることに振り回されないこと、そこで起きている話に持っていかれないことだと思います。夢の世界で囚われているヒロインを助けに行くということは、もうその世界にドップリはまっているので、行き先で待ち受けている巨人に喰われてしまったりしてヒドい目にあう流れかと思います。
だから、途中からこのお話が「自分のせいでヒドい目にあっている人を助ける」なんてことになったあたりから、どうもテーマがよくわからないことになってしまってる気がしてしまいました。
「他人を救う前に、お前自身が正気に戻らんといかんのではないか」とか思ったのです。

今作の後でドンキホーテの映画を作ろうとして失敗したドキュメンタリー『ロスト・イン・ラ・マンチャ』を見て(この作品と2本で1セットかも)から、今作はどうしてこうなったかの考えてみました。

・どうしてこうなったその1---長いこと作ってる間にテリー・ギリアムさん自身もなんだかわけわからない状態になって、なんとか映画を最後までは撮影した。編集段階でなんかこれからの希望みたいなものを足して終わらせてみた。

・どうしてこうなったその2---今の映画制作状態がまさに「テリー・ギリアム監督が1人で勝てっこなさそうな巨人に(映画を完成させるという)闘いをいどむ」ようなことになってるのでそれを作品にそのまま反映させてみた。最後に自分だけが虚構から抜け出せなくなるというバッドエンディングを撮影してはみたが、周りや出資者たちから「これでは完成させられないので、いかにもテリー・ギリアムっぽい囚われたヒロインを助けるという終わり方にしてくれ」と言われて、そのように撮影して完成させた。

彼が『未来世紀ブラジル』を作ったら映画会社から「明るいハッピーエンドにしてくれ」と言われたのにどうしても出来なくて、結局あの救いようのないバッドエンディングにしたテリー・ギリアムを私は作り手として尊敬している。私がかつてテリー・ギリアムから受け取ったのは『純粋な不謹慎さがあるということ』だったのかもしれない。
だからこそ私は今作がこういう終わり方で果たしてよかったのかが疑問に思ってしまったのでした。


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