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【石塚株式会社 熊谷 弘司氏】自分で決めることが いつも大事だった。(Vol.1)

経営者JPが運営する志高き経営者・経営幹部・次世代リーダーが集う会員制プラットフォームKEIEISHA TERRACE。「私が経営者になった日」では、経営者がご自身で「経営者」になったと感じたのは、どんな決断、あるいは経験をした時なのか、その瞬間に迫ります!


社長に任命された日=経営者になった日ではありません。経営者がご自身で「経営者」になったと感じたのは、どんな決断、あるいは経験をした時なのか。何に動かされ、自分が経営者であるという自覚や自信を持ったのでしょうか。

プラスチック製品の中でも工場や倉庫で空調効率を目的に使われるビニールカーテンを主力製品とし、加工や販売、製造する石塚株式会社。3代目として、SDGsを意識した新たな商品開発や職場環境の改善に取り組む熊谷弘司氏に3回にわたってお話を伺いました。

熊⾕ 弘司氏 石塚株式会社 代表取締役社⻑

自分のことは自分で決めていく子だった。

子どもの頃から人に判断を委ねることが、あまり好きではなかったと熊谷氏はいう。

「帝王学のようなものを誰かに教わったわけではないのですが、物心ついた頃には、自分の意見をわりとはっきり持っていて、自分のことは自分で決めていくタイプでした。
わたしは小学校受験をしているんですが、親に連れられて偶然行ったところが、成蹊学園という学校で、グラウンドが広くて走り回れて楽しそうなので、自分でここに行きたいと受験を決めました。でも受験の為に通った塾はつまらなくて親に泣きながらに辞めたいと訴えて辞めてしまうなど、その当時から自分の意思をはっきりと伝えていたようです。小学校は運よく受かり、そのまま高校まで通いました。
緑豊かなキャンパスで楽しく過ごせたのですが、特に良かったのが、小学校以降の中学受験や高校受験など、自分にとってノイズになりそうなことにさらされなかったことでした。
もともと理系の学問が好きで、国語の問いにあるような作者の気持ちを答えなさいなどは全く理解できなくて、不等号や等式で成立するほうが気持ちいいなというタイプの人間でした。遺伝子工学などに興味があったので、大学は成蹊にせずに、そういう選択がある学校を選んで受験しました。」

18歳、会社を継ぐつもりはなかった。

音楽は聞くことがメインだったが、ブルーハーツが好きだった。

「ああいう精神で生きている人たちにとても憧れを持っていました。別に反体制を気取っていた気は全くないんですが、世の中でいいとされているものが、必ずしもいいというわけじゃない。何かをやる時に、その理由がいままでずっとやってきたことだから、これからもやるんだとか、そういうのが好きではないのです。いろいろ理由を考えた結果、いまの方法が一番いいよねということで、現状の方法を選択するのは良いのですけれど。そんな子どもでした。」

18歳の時、創業者である祖父が亡くなる。

「祖父からは、幼稚園か小学校低学年で、“ゆくゆくはお前が社長なのだからな”と言われたことがありました。でも“ああ……はい”と、...

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