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「自分が持つ価値観が誰に植え付けられたものか」を知ること

私が過去に鬱になった事があるのを知っていて、その私の目の前で「鬱は甘えだと思ってる」と言ってきた人がいます。

この言葉が、言われた時もまぁまぁ衝撃でしたが、ボディブローみたいに結構なダメージになりました。

「お前、それ言って目の前のやつがどう思うか想像もしてないだろ」と

本気で怒るほど親しくもないし、怒って問題にしたくはないので
肯定も否定もせず、話を聞くだけ聞いてスルーしました。

「今後のことを思えば、私と同じ思いをする人を無くすために徹底的に論破してもよかったのかもしれない…いや、やっぱり無駄かも」

とか思いながら、人に愚痴ったりTwitterの裏アカウントに罵詈雑言を書き殴ったりして大きかったもやもやを、徐々に小さくさせてきました。

今は、鬱は甘えと発言した人の背景を考えてます。
「人の痛みへの共感力や理解力」がなくなる理由ってなんでしょうね

「人は基本、生まれつき悪い人間ではない」が私の持論です。

猜疑心が強く、人を攻撃することしかできない人も
自己顕示欲が強すぎるあまり、他人への配慮を忘れてしまう人も
自己否定感から、他人に、マウントをとってしまう人も

誰かにそうされてきたから、そうなるよう仕向けられてきたからそうなったと考えます。

鬱が甘えだと思った経緯は何か、どうしてそう思わされてしまったか

人は外部から刺激を受けて、人格を形成していきます。
その外部とは、親であり、恋人であり、友人であり、その時自分がいる最小単位の社会なのです。

なんとなくで言いますが、親の影響力が1番大きくて、次に職場とか学校とか、その次に近しい恋人や友人みたいな順ですかね。

やっぱり親すごいですよ。影響力、舐めたら絶対ダメ

前の記事にも書きましたが、幸せになれないと思い込まされるのもそう
自己否定感を植え付けられる感じ

そして「自分がそう思わされている」ことに気づかないと永遠に負のループにはまり続ける。

「私がこう思ったからこうなの」と信じて疑わない大人になるとシンプルにやばいです。

誰かに歪まされた認知を抱えて生きているということは、自分に従って生きているというよりもはやその誰かの価値観の奴隷になったようなものです。

そして、コミュニケーションがうまくいかない問題の多くは、誰かに歪まされた認知がぶつかり合って起こります。

戦争が正義と正義のぶつかり合いなのと同じように、その認知を歪ませた「誰か」の代理戦争をしているにすぎないみたいな

自分の価値観がどうやって形成されてきたか、ちゃんと考えたことがある人ってどれくらいいるんでしょうね。

大人になればなるほどちゃんと考えるのが難しくなりますよね。多分。

指摘する人がいなくなって、「わざわざ言わなくてもこいつとはこれ以上もう親しくならないし」と、自然にフェードアウトされるし

それだけは避けたい…
だからこそ「価値観の違うもの同士で、なんでも言い合える間柄の人」は、手放しちゃいけないんだなとものすごく感じます。

自戒を込めて、noteを書いてたら長くなってしもうた
区切ってみたので、見やすかったら「スキ」ください…|^ω^)b

今日はここまでです。おやすみなさい。

(おまけ)
最初につけてたタイトルが本心なんだけど喧嘩売ってるみたいになってしまって没に

それでは聞いてください。『鬱は甘えと言えちゃう頭の単純さが最早羨ましい』

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