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あの道

ふと、とある昔のドラマが観たくなり、一度見たいと思い始めるとそれは使命感に変わり、私は登録している動画配信サービスのアプリを開いた。
タイトルを検索するも、私が登録しているサービス内でそのドラマは配信されていない。
「またか…」と、肩を落とす。

私はTSUTAYAのヘビーユーザーだった。TSUTAYAに行けばだいたいのことは事足りていた。
邦画、洋画、懐かしいドラマ。
ディズニー、ジブリ、最新作からアングラもの、それに大量のCD。
繰り返しレンタルしてきた。
しかし、このネット社会(と、ステイホーム)に淘汰され、近隣のTSUTAYAは全て潰れてしまった。

パッケージを見て選ぶのが好きだった。
ダラダラと時間をかけて店内を徘徊することも、事前に調べていた観たい映画を探し廻ることも、今思うと醍醐味だった。
そんな中でついで借りしたものが思いがけず名作だった時の喜びに、私は病みつきになった。
TSUTAYAが潰れてからは映画やアニメを観ることがとても減った。

本当に好きな作品は購入して手元に残しておきたいとは私も思うが、「ふと見たくなる」レベルのものを全て揃えられるほどの財力とそれ相応の置き場所は無い。
だからこそのTSUTAYAだった。

TSUTAYAなき今、これはNetflixにはあってprime videoにはなくあれはNetflixにはなくてHuluにありジブリに至ってはどこにもない、ということがしょっちゅう起こり、その都度私を絶望的な気持ちさせた。

懐古主義なつもりはない。
便利なものは便利なものとして私だってお世話になってはいるのだが、こんなにも馴染まなくてはいけないのか?ということに時折ひどく疲れ、落胆してしまう。


冒頭で「ふと、」と前置きをしたものの、そのドラマを観たくなったのには経緯があった。

その日私は、好きなことをして生きていかないと辻褄が合わないということの恐怖を身に染みて感じていたのだ。

徐々に歳を重ね、様々な経験の中で自分の人生を一歩ずつ進み、人と違いそれでも自分は自分だと胸に刻み生きている。
だが時に、ほんの些細なことがきっかけで自分の歩んできたその道に確信を持てなくなる。
私は先行きが見えない自分の未来に対して悲観的にならずにいられるような人間ではない。

様々な転機があるごとに、気持ちに従い生きてきた。
“好きなことをして生きていく”
有無を言わさぬスピードで世の中に流れ込んでくる言葉、価値観。
精一杯の私の足跡はその波にかき消されていく。
私にとって好きなことをして生きていくとは、「風の時代」として一括りにされ、まとめサイトの中で解りやすく解説できるようなものではない。
しかし、「自分が自分であるという生き方」に最大の焦点を当て、そこにいくつもの課題を見出している私にとって、ここへきて「好きなことができていない」ということがあるならばそれは非常にまずいことのように思えてきたのだ。

何者かになれなくてもいいが、“ちゃんと”好きなことをして生きないとこれは取り返しがつかないぞ、という警鐘。

それは恐怖だった。
好きなこと、というのはもっと自由で軽やかな事ではないのか。風のように。
好きなこと、に対してこんなに気張らないといけないなんて。
好きじゃないこと・我慢を強いられることを主軸にして生きてしまうなんて、好きなことをして生きよう!と時代の方から提唱してくれているというのに、一体私は何をしていたのか?と、死に際に頭を抱えてしまうのではないか。

そういった気持ちがぐんぐん私を支配し始めた時、ふと、そのドラマを観たくなった。
好きなのだ。ただ単純に。それは何にも侵されない安心・安全な場所だ。
そして冒頭へ戻るのである。

もう一度頭から読み返す。

人生ってきっとそういうことの連続だよ?と誰かが言う。
いや、そうだとしても。
そんな一言でモヤが晴れたりしない。
私はしつこくジメジメしていて、いつだって突っ込みどころ満載なのだ。


長かった今年の梅雨も、明日にはもう開けるだろうか。

そして私はそのドラマのDVD-BOXを購入してしまおうかと思いながら、いつまでもTSUTAYAを恋しがっている。



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