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幻影

今、懐かしい地で珈琲を飲んでいる。
中途半端に時間が余ってしまい、昔何度も足を運んだこの地に来てみたのだ。

耳馴染みのある駅名を頭に浮かべると、降り立った時の様子や街の空気感が悠々と蘇る。
駅前には確かファミレスがあった。時間を潰すにはもってこいだと思い、その店を目指すことにした。


「お好きな席へどうぞ」
私は瞬時に、自分に襲いかかる事態に身構えた。
この店、なんか無理や。
店内から放たれる澱んだ空気に取り囲まれ、パニックを起こしそうになる。
雨が降る前に感じる身体の不調に似た、ソワソワとした不快感が体内に広がる。
肌に合わない、そうとしか言いようがなかった。
しかし入店してしまった以上席を決めなくてはならない。
動悸に近い呼吸を抑えながらぐるりと店内を歩いて回るも、たくさんある空席の中に「お好きな席」は一つもない。
数名の客がいたが、仮に客が一人もいなかったとしても、だ。

それでも退店するのは申し訳ない気がして無理矢理席を決め腰を下ろす。
注文はタッチパネルでするらしい。手を伸ばし、画面に触れてみる。
店全体の広さや天井の高さに対しての席の配置バランス、音楽の音量、照明の明るさ。
何もかもが絶妙にズレていて、体を満たしていた不快感は不安へと変化し私を支配し始める。
追い討ちをかけるように机はベタベタとしている。嫌すぎる。

隅の小さなテーブル席に決めた私は、せめて視界に映る景色を最小限にしようと店内に背を向け壁を見る形で座り、タッチパネルを自分の方に引き寄せようとするも、コードが短く私の座った方の席には届かない仕様になっている。
店内を見渡す側の席に座るよう強制されているというのか。
そちら側に座らなくてはメニューが決めれないので仕方なく席を移ると、あらゆる不協和が視界に飛び込んできた。
客はみな絵に描いたように清潔感がなく異様なオーラを放っていた。
薄暗い店内と明るすぎるタッチパネル。そこに映し出された脂っこそうな食べ物たち。心を押しつぶそうとするような音楽。
たった数分の間に、私はこの世から遠く切り離された異質な空間に取り残され、たちまち絶望的な気持ちになった。
お冷やも運ばれていないし店員もどこにいるのかわからない。申し訳なくなる理由が見つからなくなり、私は立ち上がりそそくさと店を出た。

そしてすぐ近くにある珈琲チェーン店へ逃げてきたのだ。
今にも泣き出しそうだった。一刻も早く一人きりの空間に逃げ込みたかった。
一人きりの空間とは、誰もいない個室、というものだけではない。

三階建ての立派な珈琲チェーン店はどの階にもそれなりに人がいた。
私は三階の窓際にある小さな席に荷物を下ろす。
自分を纏う空気の膜が何者にも乱されないことを確認し、大袈裟なくらい安堵した。


気を取り直して珈琲を飲みながら、懐かしいこの地での色々なことを思い返していた。
窓からこの街を見渡す。
このご時世、潰れてしまったお店も沢山あるのかもしれない。
色あせた女の子の写真が掲げてあるバーや、満面の笑みを浮かべた謎のキャラクターがシンボルのカラオケ店、大きな円卓が備えられていそうな赤い装飾の古臭い中華料理屋。
それぞれが苦境に立たされたのだろうが、何一つ変わらないようにも見えた。
物思いにふける中でふと、私は過去にあのファミレスに入ったことがあったかもしれない、という気を起こした。

まさか、そう思うも束の間、記憶の尻尾を掴むや否やみるみるうちに引き出しは開かれ、私の曖昧な記憶は確信に変わる。軽いショックさえ受けた。
確かに昔、私はあのファミレスに入ったことがあった。

あぁ、そうだ。
あの時私は一人じゃなかった。

今とは、何もかもが違っていた。
私たちには他に選択肢がなかったのだ。あのファミレスに留まるしか生きる方法がなかった。

沼に足を取られ、もがきながらも水面を夢見ていた。体力はみるみる奪われ息も絶え絶えの日々だった。
私たちはそんな日々を励まし合った。いつか水面へ届くからと。
一人では生きていけなかったが、一人でなかったことで沼はより深くなった。蟻地獄だった。
私たちは閉じ込められていた。閉じ込め合っていた。

どうやって沼から脱出したのかは定かではないが、私たちはお互いの手を離すことをいつどこからか覚えたのだろう。
助けてくれる他人の存在を徐々に受け入れたのだろう。
必死にもがく中で身体にはしっかりと筋肉がつき、抵抗を少なくしながら浮上する術を体得したのだろう。
二人一緒じゃないと生きていけないと信じていた。
信じていたが、そうじゃないことを思い知ったのだろう。

薄暗く閉鎖的な空気を放っていたあのファミレスは、あの頃の私たちを匿う場所としては最適だったのかもしれない。
異様なオーラを放つ客の中にあの頃の私たちはきっと混在していた。
記憶に残らないものとして処理されていたその出来事を引き戻してしまい、私はたまらず、あの頃の私たちを纏めて抱きしめた。
君たちは、よく生きた。


今、珈琲チェーン店の3階席から小さな街を見下ろしている。
気付けばあの日々から随分遠くまで歩いていた。
細すぎる身体で大きな荷物を引き摺るように歩く幼い私の姿を行き交う人の中に探したが、見つかることはなかった。

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