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SNSで短歌を発信することのアイドル性

「賞や歌集の出版を目指すのではなく、既出扱いになってしまうSNSで短歌を詠むことにはどういった意味があるのか?」という質問をされたことがあり、とても面白かったので自分なりの理由を考えてみた。

私の中では、毎日の短歌発信を見ることでの楽しさ、自分で歌を発信することの醍醐味が各々あると思っている。

他の人の短歌を毎日見るのは楽しい。同じように、自分で歌を発信するのも楽しい。しかし、これらの楽しさは本を買って読むのとはまた別の楽しさであると思う。

ではSNSで言うところの「楽しい」の正体はなんなのだろう?

これらのSNSを通した短歌鑑賞に共通するのは「アイドルっぽさ」なのではないかと思い至った。
これは自分がアイドル気分で短歌を発信しているというわけではなく(それはそう)、未完成なものや結論を出しきっていないものを追うことの楽しさという面でSNSでのリアルタイムな発信が本などのゆっくりとしたコンテンツと異なっている、ということだ。


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SNSには数多の短歌アカウント(短歌垢)が存在する。

ストイックに短歌だけを投稿し続けるアカウントもあるが、多くのネット歌人は日常的なツイートと短歌が混在するアカウントを作っている。

私はフォローするときは必ずそれ以前の長らくの発言を見てからフォローするようにしているのだが(これに時間がかかって最近はフォロバが遅れています、すみません)、それらの発言の中には少なからず短歌についてのことが書かれている。

自分の作歌能力について葛藤したり、憧れの歌人の投稿について話したりして短歌がもっと上手くなりたい、と締めている発言を目にする。

なんとなく日本のアイドルの在り方に似ている気がするのだ。筆者自身はそこまでアイドルに詳しいわけではないのだが、現在進行形で努力して表現を続けている個人を鑑賞者として見るという構図は彼ら彼女らのそれにとても近いのではないか?


蝶が羽ばたく瞬間を見る

また、フォローしてからしばらく見ていればそれは本人の心境と紐づいた歌を今詠んでいるのだなと思う瞬間が確実にあって、「この人の今日の短歌、普段と雰囲気が違うような?」と思う短歌に遭遇することがある。

この手の遭遇で面白いのは、歌集や連作のなかで味わう転調とは意味が違うという事実だ。

完成されたコンテンツのなかでの緩急ならば作者の感動は再編集されたものであり、計算された追体験ではエンタメ的な楽しさが先行する。そのあとで作者あるいは主体の心境の変化に思いを致すのが常だ。

一方で普段と違う短歌が投稿されたというとき、それは数分前のユーザーの気分の変化であって、普段から蓄積された「その人らしさ」ありきの感動なのだ。リアルタイムになんらかの発見をしてゆく人を静かに追っていると、完成形を見ているよりも生身の追体験が可能である(勿論、自己との同一視はするべきでないと分かっているけど)。

これは長年本を出している作家やミュージシャンでも同じことを言えるだろうが、それを一首単位で摂取できることはSNSならではだと思う。

自分が寝ぼけて起き上がったタイミングでリアルタイムの作品を見られて、なんとなく歌を見るとああこの人だ、と分かる。日常の色々なできごとを繰り返しながら未完成の好きなものを高めてゆくのはその人自体がブランドなのだろうと思う。

パッケージ化された人の静的な生き様ではなく、よりリアルで日常ベースの文脈に乗せられたコンテンツであることが強調されるのが楽しい。研ぎ澄まされた十首選だけでなくてさりげない短歌も読みたい。自分がSNSに参加することでこういう生活の集合体のなかに入れるなら面白いと思うから短歌垢を作っている。

皆様はいかがですか?

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