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【短編小説】前世の記憶


暖冬などという言葉を作った人間は、きっと冬を知らないに違いない。


鼻先が凍る程の冷たい風を受けながら、男はトレンチコートの襟元を無意識に掴んだ。

追い討ちをかけるようにビルの隙間風が無防備な耳を掠め、男はもはや寒さに苛立ちの限界を迎えていた。

駅から大通りを抜け、ビルとビルの間の道とも言えぬ路地を進む。薄暗いその道は、50メートルも進めばまた別の大通りへと出る。

マンホールからの異臭に耐えながら半分ほどその路地を進むと、右側に鉄の扉がポツンとある。

ドアノブを回すと、錆びた鉄を無理矢理引っ掻くような音がした。

ドアの中は薄暗く、窓もないので日の光すら差さない。

人間1人がようやく通れるような狭い階段が上に続いていて、階段の先の天井に薄い電球がぶら下がっていた。

ビルの入り口はチープな丸いドアノブだったのに、この部屋への入り口の扉は重厚で、高級感すらある。
男はドアノブに手をかける。ひんやりと冷たい金属に思わず身震いをする。
重そうな見た目の割には、扉は押すとわずかな力で開いた。


この記憶だけがはっきりとしている。
自分で見たこともない、行ったこともないあのビルと扉の記憶が、なぜか彼には鮮明にあったのだ。
夢で見たわけではない。めったに夢を見ない彼にとっては偶に見るほど覚えているものだ。
だが夢の中の記憶にはない。
トレンチコートなんて着たこともないし、1番背の高い建物は役場というような田舎に住む彼にとって、ビル群の景色など、たまに散歩途中で見る平屋の居間から流れる映像の中でしか記憶にない。この辺りは、生い茂る草木を分けながら歩かなければならない道ばかりだ。

生まれてから数年、彼はついにこの謎の記憶に終止符を打つため、あるところを訪ねた。
そこに住むのは「魔女」と呼ばれる、年老いた女性。森の奥に佇む小さな山小屋のような家に、彼女はひとりで住んでいる。時々ここを訪れるのだが、彼女はいつも庭先の花を愛でて、縁側に腰掛け、ゆっくりと空を見上げたりしている。
時々誰かが訪ねてくることもあるようだが、この家は夜が来ない。ずっと明るくて、気がつくと魔女以外の人が家から出てくる。みんな決まって嬉しそうな顔をしていた。
その山小屋の周りだけ、時間がゆっくり流れているような気がした。


魔女と呼ばれる彼女は、まだ齢50のごく普通の主婦だ。看護師として家から自転車で通えるデイサービスに勤めている。旦那とは早くに離婚し、子供もいない。幼い頃から夢に見た、田んぼに囲まれた静かな場所に平屋を建て、庭でガーデニングをしながら、度々訪れる友人や親戚と他愛もない会話をしながらお茶会を開くのが趣味だ。
「やあ、城間さん。田んぼもだいぶ整えたんだね」
ある日、通りすがりの近所に住む高齢の男性が、魔女の畑を覗き込む。
「草が生い茂ってなかなか大変だったけどね。お野菜の苗を植えたから、また手入れが大変だわ」
魔女は庭のパンジーに水をやり、付近の小さな雑草を丁寧に指で摘む。
「さあ、コーヒーでも飲んで行きなさいよ」
「いつも悪いね。魔女さんの淹れるコーヒーは格別なんだ」
男性は縁側に腰を掛ける。
「なんてことはないただのブレンドよ。他人が淹れるとなぜかコーヒーは美味しくなるの」
ふと、男性が畑の向こうを見る。
「おや、猫じゃないか。珍しい」
魔女は手を止め、友人の視線を追う。一匹の茶色い猫が、のそのそとこちらに歩いてくる。
「最近よく来るの。畑を踏まないように教えたばかりよ」
「猫が言うことを聞くのかい?」
「まあね。わたし、魔女だもの」
「ワハハ!そうだったね。さすが魔女さんだ」
「根気強く伝えれば、動物にだって伝わるわ」
「賢い猫なんだろうね」
猫は畑を器用に避け、区画の真ん中を通ってトコトコと歩いてくる。
「すっかり懐いちゃって。子供たちにもいじめないように伝えないと」
「確かここは山の向こうの学校に通う小学生の通学路だったかな」
「そうなの。保護者の方たちからも『魔女さんのお宅があるから安心です』なんて、警備所みたいな扱い受けちゃって」
「保護者からも魔女さんか」
「子供たちがそう呼ぶんだもの」
「城間をジョウマって、あまり読まないからね」
「おかげさまで小学生の頃から苗字を逆に読んであだ名が”マジョ”なんだもの」
「夜になるとこのあたりは家も少なくて暗いから、夕方の下校近くはこの魔女の家が灯りになってくれて、私の孫も助かってるよ」
「ガーデニングを夜でも楽しめるように、庭先にすごい数の電灯つけちゃったもんだから」
「趣味を極めていくと切りがないからね」
「さすが、釣りを極めて漁師になった人の言うことは説得力があるわ」
男性は豪快に笑う。
「前世が魚だったものでね。やつらの考えていることは手に取るようにわかるのさ」

トレンチコートを着た自分の姿を想像できない彼は、魔女の元へ向かう。
魔女は庭先で黄色い花に水をやっていた。いつも草木を分けて歩いていた畑は、せっかく見晴らしもよくなり歩きやすくなったというのに、魔女によって周りに烏の糞や不快な香りのする何かを撒かれたりしているので、仕方なく遠回りでも畑の向こう側から狭い道を通らなければならない。
そして今日もどうやら来客のようだ。
魔女よりも更に年老いた誰かだ。
魔女は物知りだった。彼が生まれる遥か昔の話や、前世の話をよくしていた。あの魔女の隣は、確か魚の生まれ変わりだ。


「前世、思い出せたのね」
「ああ、魔女さんのおかげさ。だがまあ、大きな海で揺蕩っていたほうが幸せだったなあ」
「それなら、次はまた魚に生まれ変わればいいわ」
「ふむ。希望が通ればいいが」
「きっとうまくいくわよ」
「君は希望があるのかい?」
「ええ、そもそも前世からほんとうは猫を希望したんだけど」
「前世は確か」
「弁護士よ。それもヤクザ専門の」
「抗争に巻き込まれたらしいな」
「そうなの。ビルは古っぽくて事務所の入り口は派手な見た目なのにただの木の板だから隙間風もすごくて」
「いいじゃないか。いかにもその筋の弁護士事務所らしい」
「おかげで顧問をしてた組と敵対していたヤクザ相手にあっけなく」
「もしかしたらその相手も生まれ変わってるかもしれんな」
「そうねえ、滅多に会えるもんじゃないけどね」


縁側の男性が笑いながら帰っていく。
今日もまた、この家は誰かを笑わせている。
トレンチコートを着た自分の話を、この魔女は信じるだろうか。
そもそも、この魔女は猫の言葉などわかるのだろうか。
いや、理解しているに違いない。
なぜなら猫である彼ですら、この魔女の言っている言葉を理解しているのだ。
ゆっくりと、縁側でパンジーを眺める彼女に近づく。
すると、小さな少女が魔女の家のインターホンを鳴らした。
魔女は少女を迎え入れ、先程と同じように縁側でコーヒーを振る舞う。
自分も猫でなければ、あのコーヒーという飲み物を飲めるのに。やたら美味しそうに感じるのは、彼がその味を知らないからだろう。
彼にはトレンチコートを着て扉を開く、ごくわずかな記憶しかないのだから。
少女は暗い顔だったが、段々と表情を取り戻し、やがて小さく微笑んだ。

魔女は囁く。

この世界にはね、不思議なことが溢れてる。
何かあったならまた来なさい。
コーヒー1杯くらいの話はきいてあげる。

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