鏡越しの君 #1

#1ルビー・サファイア

鬱々とした曇り空を見上げた。ため息が吸い込まれていく。学生を横目にトレーを席に運ぶ。

この辺りではここにしかないってのもあるが、ここのファーストフード店はいつも賑わっている。

ハンバーガーを口に運ぶと、何も考えていなかった学生時代を思い出す。

この春、就活に失敗した。お祈りメールを何通もみた。◯人と聞いて何を思い浮かべるだろう。

俺は凡人だ。どこまで行っても凡人にしかなれない。秀でた才能もない。

うちは母子家庭で親が五歳の時に離婚した。

高校三年生の時に、大学に行くお金もなく就職の道を考えていた。
今思えば無責任な言葉に腹が立つが、「奨学金を借りて行って、いつか返せばいいのよ」と言った。

あの時の母は励ますつもりだったのか、あまり働かない自分のことを棚にあげていたのか。

母子家庭の俺の中には就職の道しか残されていないと思っていた中での希望の光だった。

「月3万だとしても何年かかるんだろう」
「そんなこと心配しなくてもいいわよ。無利子のものもあるし」
今となっては後悔している。俺に知識がなかったことと地頭の悪さが露見したのだった。

大学の四年間はそれは楽しかった。
何事にも代えられない貴重な時間だったと思う。

奨学金もアルバイトをしながら少しでも返していた。

だからこそ、まさか、自分が失敗するとも思っていなかった。この不況のなか就職難と言っても自分だけは何処か別だと思っていた。

隕石や雷が自分には落ちるわけがないと思っていて、仮に飛行機が墜落したとして、自分だけは無関係だと思っている。
それと同じだ。

何人かに一人の中に、まさかこの普通の俺が入るとは。周りは全員就職出来た。
友人もアルバイト先の連中も皆。

次第に疎遠になり奨学金の返済も滞った。
アルバイト先の人には就職に失敗したことは知らせてある。
アルバイト先の後輩達には気を遣われ、裏でコソコソと悪口を言われているのも知っている。

その上、母方の祖母が要介護になり祖母が一人暮らしをしていた家を売り払いうちに来た。

認知症を少し患い、足腰が悪く車椅子になるかもしれない。

毎日、この先のことを考えると憂鬱になる。少なくとも今の自分には満足していない。
アルバイトも大したお金にならない。

バイトのない時は気分転換に一人でファーストフードを食べに行くのが日課だ。少しでも気を紛らわせられる。

店を出るとすぐそこにアンティーク雑貨のお店を見つけた。
アンティーク雑貨を収集する趣味はないが、なんとなく強く惹かれるものがあった。

その中でも一際、細かな装飾の手鏡が目についた。
何故か衝動的にこの手鏡を買わなくてはいけない気がした。
買ってどうするのかは考えていなかった。

「お目が高いね。その鏡は美しいだろう」「え、あ、はい」

おじさんがにこにことこちらを見ている。
「これいくらですか」
「二千円だね」

手鏡にしては高い。二千円あればハンバーガー、コーヒー、コンビニのごはんがどれだけ食べられるだろう。

俺はポケットから財布を取り出しておじさんに手渡した。

「彼女へのプレゼントかな」
「そのようなものです」

彼女なんていないと見透かされているような気がしたが、俺は手鏡を持って帰った。

部屋に入ると早速手鏡を鞄から取り出して手に取った。
鏡自体はそれほど綺麗でもなく、アンティーク雑貨なだけあり、ぼろくも見える。

何がそんなに良かったのだろう。
鏡が水面のように揺れたような気がした。

扉が開き、慌てて鏡を布団に隠す。
「おかえり、帰ってたんならいいなさいよ。お風呂洗ってもらえる」

おん、と返事をして扉が閉まるのを待った。鏡を机の中に仕舞い、階段をかけ降りた。

そこに丁度お手洗いから出てきた祖母と会った。
「あんたは…ええと」
「ばあちゃん」
「知らん人がおる。ユキエ、知らん人が」

認知症の祖母は母さんのことだけ分かり、由紀恵と下の名前で呼ぶ。

毎度顔を会わせる度にこの反応だ。
そのうちパニックを起こして俺を追い出そうとする。
「母さん。ほら、孝輔だって。フリーターの孫の記憶はないのね。ある意味良かったじゃない」

黙ったままお風呂を洗い、部屋に戻った。
引き出しから鏡を取り出して自分の顔を見つめる。

変顔をしてみたり、まじまじと鏡の中の部屋の様子を見る。
「あれ」

やっぱりそうだ。また鏡の中が揺れたような気がした。

良く見ると部屋の中にスーツがかかっている。振り返って部屋の壁を見ても何もかかっていない。

目を擦り何度も鏡の中を見ても一緒だ。
奇妙だな、部屋にスーツなんてないのに。

鏡に触れると指先が鏡の向こうに消えた。
驚いて手を引っ込める。

もう一度鏡に触れると、引っ張られる感じがした。鏡を透過している感じに近い。

気がつくと、ベッドに仰向けになっていた。あれ、寝てしまっていたのか。

起き上がると机の上の参考書が消えていて、黒い鞄とスーツが目についた。

俺の部屋であって俺の部屋でない。
部屋の間取りは俺の部屋何だけれど、置いてあるものが違う。

「ごはん出来たから降りてきて」
下から母の呼ぶ声がした。

降りていくと夕食が用意されていた。
「お弁当箱出しなさいよ」

席に着くと向こうの部屋でばあちゃんがテレビを見ながらお茶を飲んでいた。母の顔を見つめ返すと母は顔をしかめた。

「何キョトンとしてるの。まさか忘れてきたんじゃ」
「いや」

部屋に戻り黒い鞄を開けると、お弁当箱があった。その中に書類が入っていた。
「高幡株式会社。これって」

俺が入りたかった最後の砦であり、最終選考までいった会社だ。

書類の中は研修資料やパワーポイント、営業の訪問先などが書いてある。
紐を引き上げると社員証が出てきた。
間違いなく俺だった。


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