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37時間42分の出来事

こんにちは。

忘れるって聞いてたけど、本当に忘れるものなのですね。痛かったのは間違いないのに、もう何かに例えて痛みを表現することすらできないくらい、しっかり覚えていません。でも、人生最大に壮絶だったことを記しておこうと思います。

臨月に入り、産院からは「大きくなりすぎる前に早く産もう、動け動け」とスパルタぎみに指導を受けていた。はじめての高齢出産、言われるままに、早足の散歩を日課にしながら、産院で行われるマタニティエクササイズにも参加して、せっせと動きに動いた。

予定日より数日早いある日の夕方、いわゆる“おしるし”的なものがきた。大阪の実家に里帰りしていたので、急いで東京にいる夫へ連絡を取った。たまたまの金曜日、仕事終わりに大阪へ移動することになった。週末に合わせてくるとは「この子は生まれてくる前から親孝行」と称された。

その後、陣痛とおぼしき鈍痛がきた。入院のタイミングは事前に産院と相談済みで、陣痛の間隔が15分を切ってから、約束どおり電話を入れた。破水はなかったものの、出血が続いていることを伝えたところ、一度来院するようにとの指示。東京から到着したばかりの夫に車を出してもらい、産院へ向かった。ここまでは、まだまだ余裕。

産院で助産師さんの診察を受ける。まだ子宮口の開きは半分にも満たないようで、もう少し時間がかかりそう。一度帰宅するか、数時間後に開始される午前の診察を待つか、と問われた。そこそこ痛みも増してきたし、正直帰る気になれなかったので、待つことを選択。ここまでも、まだ余裕。

翌朝の診察で、先生が少し力を加えて子宮口を広げてくれたものの、まだ赤ちゃんが下りてくるところまではいかない。そのまま入院となり、本格的な陣痛との闘いが始まった。

歩けば陣痛が進むと促され、産院の廊下をウロウロ。いいと言われる体勢を取るけれど、なかなか効果が出ないまま時間ばかりが過ぎる。「1分間隔にならないと分娩台にはあげられない」と助産師さんに言われる中、陣痛間隔が2~3分になったと思ったら、また5~6分に戻るの繰返し。点滴のせいもあって、むくみが酷くなってきた。

入院しているので陣痛室にいながら食事が運ばれてきた。こちらは点滴だけでお腹いっぱいなので、軽いものだけ口に運び、ほとんどは夫に食べてもらう。美味しい食事に満たされたせいで、私よりも付き添いの夫が睡魔に襲われて力尽きてしまい、一度実家に戻ってもらった。

ひとりになり、お腹に向かって「焦らなくていいけど、早く出ておいで」と話しかける。けれど、なかなか踏ん切りがつかない様子。初産は10時間くらいかかるとか聞いていたので、それくらいの覚悟はしていたけど、あっという間に24時間が過ぎてしまった。隣の陣痛室には、同じく分娩を待つお母さんたちが次々に入っては、出ていく。すでに、5人くらいに先を越され、産声が聞こえるたびに、次こそは!と思いがはやる。さすがに、もう余裕ではなくなってきた。

痛みに耐え続けて体力を消耗しているからと、睡眠導入剤を処方され少し休むように言われた。痛みの中でウトウトしたけれど、どれだけ眠れたかは分からない。明け方に、これまでより強めの痛みを感じ、夫を呼び戻してもらった。いよいよか!と、父と母も同時に産院へ顔を出してくれたけれど、結局のところ小康状態が続いた。

30時間を過ぎようという頃に「赤ちゃんも母体も元気だから帝王切開にはできないけれど、そろそろ促進剤を投与するか」と提案を受けた。待ってましたと藁にもすがる思いでお願いした。いろんなリスクがあることを丁寧に説明してくださる先生に対して、夫もわたしも、「そんなのもういいから早く打ってくれ」と心の中で叫ぶ。

36時間を過ぎ、「もう1日半か、2日覚悟するのかな」なんてボヤキつつ、促進剤の投与が進み、少し体勢を変えて座った。夫が腰のあたりを上から下へさすりながら陣痛の波に合わせて「せーの」と声をかける。すると、赤ちゃんが意を決したかのように、ズシン!と動きだした。「おいおい、もっと早くコレやっとけば良かった」とか言いながら、あれよあれよと陣痛が進む。そして、痛すぎて気分が悪くなり、吐いた。それはそれで、気分がすっきりして、また陣痛に集中する。

そして、とうとう“生まれそう”というより“産んでしまう”という危機感に似た感覚がくる。「もう産みたいのですが、ダメですか?」とナースコールを鳴らす。

助産師さんに診てもらうけれど、やや怪訝な顔。「まだ開ききってない感じするけど、産める?」と聞かれた。「はい、産みます」と答えたところ、「しゃーなしやで」って感じで分娩台にあがることを許可された。

ようやく座れた憧れの分娩台。赤ちゃんに会えることよりも、分娩台の感触に感動していた。その後、すぐに破水。陣痛の波に合わせて呼吸を整える。「ふん!」と息む声に、先生から「声を出すと力が逃げるから黙って息むように」とアドバイスを受けた。何度か息んだところで「ああ、これは狭い、そりゃ時間かかったね」と、産道が思いのほか狭いということが分かった。子供の頃に股関節を手術したことが影響していたのかもしれない。「あと数日遅かったら、大きくなりすぎて自然分娩は無理だったかもね」とか、そんな世間話を挟みながら、息みを繰り返す。そのとき、「もう頭見えてるよ!」という助産師さんの声がきこえた。

最後の一回というところで「はい、手を出して」と、自分で赤ちゃんを取り上げるように促される。わたしが産んだ産院では、希望に応じて赤ちゃんが生まれる瞬間を母親の手で迎えることができた。いよいよだ。

はじめて触れる我が子の温もりは、この世で一番あたたかいと思えるほどだった。何とも表現し難い気持ちで、感動よりも安心感と解放感に包まれた。産む前までは、赤ちゃんを取り上げながら「よくがんばったね」と涙ながらに赤ちゃんに話しかける自分を想像していたけれど、涙どころか笑いながら「長かったね~」と互いの奮闘をたたえあう感じになってしまった。

その後は、もう淡々と事が進んだことだけを覚えている。立ち会っていた夫がヘソの緒を切る手伝いをして、無事に娘とわたしは切り離された。父と母も孫との対面に喜んでいた。わたしは、その様子を横目でみながら分娩台のうえで、2時間ほど過ごし、病室へ案内されて眠った。母親の産後の体力回復に重きを置く産院だったこともあり、母子別室で朝までたっぷり寝られて、とてもありがたかった。

後日、手元に戻ってきた母子手帳には、『37時間42分』との分娩時間が記録されたいた。分娩台に移ってからは30分くらいで生まれてくれたようだ。

この事を聞いた友人たちは「大変だったね」と労いの声をかけてくれたけれど、一番大変だったのは、お腹の中でひとり奮闘した娘だっただろうと想像する。そして、生まれた瞬間、わたしは娘へ尊敬の念を抱いたことを忘れずにいたいと思う。

2歳になりイヤイヤ期真っ盛りの娘には、ときどきイライラしてしまうこともあるけれど、この出来事を通じて見せつけられた娘の芯の強さに、憧れてやまない自分がいます。


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