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小さくなった長靴と大きくなった娘の足

こんにちは。

「もう、捨てるしかないな」と夫が言った。その言葉に、わたしは動揺し、“うん”とも“すん”とも返せず立ちつくしました。

たしかに、もう娘の足には小さくなった長靴。履けないなら、捨てるしかないのかもしれない。普通なら、そうする。普通というのは、例えばわたしの靴が履き古してボロボロになったなら、「おつかれ!」と言ってゴミの日に出すだろう。けれど、なぜか、そんな気になれない。

久しぶりの雨の日に、くつ箱から娘が嬉しそうに取り出した長靴は、ピカピカに輝いてみえた。「なんか入らないよ」と言う娘に、「え?!」と驚く夫の声。「あぁ、入った入った」と、半ば無理やりに靴をはめた。

その日は夫がテレワークだったので、わたしが保育園まで送っていった。家を出るなり、抱っこをせがまれ、雨も降っていたし、娘を抱えて歩き始める。途中、大きな水たまりを見つけて、娘は「歩きたい」と言い出した。

はいはい始まった、と思いながら娘をおろす。いつもなら、バシャバシャと突っ込んでいくのに、なぜかチョンチョンと遠慮がちに水たまりを蹴る娘。よく見ると、歩き方がヘン。つま先立ちしながら、ヒョッコヒョッコと歩いている。「足痛いの?」と聞くと、首を振って「ううん」と答える。

やっぱり、小さいんだ。娘の足にはめられた長靴は、明らかに小さかった。かかとが詰まって、つま先立ちで歩く形になっている。それでも、娘は嬉しそうに水たまりを見つけてはチョンチョンと入っていく。その姿を眺めながら、「もう、長靴小さくなっちゃったね、早く保育園行かなきゃ足痛くなっちゃうね」と声をかけて、行き道を促す。

保育園へ到着し、玄関で長靴を脱がせる。小さな長靴から出てきたひと回り大きい娘の足に驚いた。まさに、大きな足だった。そりゃ、大人と比べれば小さな小さな足。けれど、脱いだ長靴の横にある娘の足は、横にあるのが不自然なほどに大きかった。この足に一時でもこの長靴がはまっていたことが不思議。

娘を預けたあと、夫にLINEを送った。
 -やっぱり、長靴ちっちゃいわ。
 -そっか。もう、捨てるしかないな。

「捨てるしかない」なんて言葉が返ってくるとは思いもよらず、なんか、二度見した。履けないものは仕方ないのだから、夫の反応は当然のことだろう。けれど、同じ意味であったとしても、「新しいの買おう」とかだったら何も気にしなかったように思う。なぜ、夫の言葉にこんなにも動揺したのだろうか。

そういえば、わたしが幼い頃に使っていたガラクタを母は大事に残している。「捨てたら?」といくら勧めても、「そのうちね」と言って母は捨てない。これか?こういうことなのか?

その日の朝、くつ箱から娘が嬉しそうに取り出した長靴は、実際にはところどころ擦り傷があり、薄っすらと汚れていた。それが、なぜかとても誇らしげに、自らピカピカ光ってみえた。その印象がやけに切なく、だからこそ、長靴が捨てられる様をわたしは思い描けなかった。

もしかしたら、わたしは娘の長靴に、自分を重ねていたのかもしれない。時が経ち、親離れしていく娘がいる現実に、すでに動揺してしまったのかもしれない。自分でも、なんて大げさなのかと思うけれど、通勤電車の車窓にみえるもう少しで雨があがりそうな空に、遠い未来を映しながら考えた。

きっと、わたしはこの長靴を捨てられない。

そして、いつか娘に「捨てたら?」と勧められても、「そのうちね」と答える自分を想像しています。


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