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【エッセイ】私、芸術・評論②「私と学校」

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私にとっての「学校」

 「学校」とは「思考を停止する能力」を訓練する場所である。この能力は人間が社会生活を行う上で非常に重要である。

 この世には理不尽なことがたくさんある。
 災害、疫病、戦争、死…こうした災厄に対してロジックは無力である。「なぜ?」と問うことは無駄であり、時として人を追い詰める。極端なことを言えば、論理的理由とはこじつけであり、誰かにとって都合の良いストーリーをでっちあげているにすぎない
 だから、「思考を停止する能力」は重要なのである。これを小学校から高校までの12年間で学ぶ。

 あらかじめ決められたカリキュラム、集団行動を強制されるクラス、服装や頭髪をはじめとした細かいルール。
 これらに論理的理由はない。あるとすれば、学校にとって都合が良いからであるが、少なくとも生徒にとっては理不尽である。思考を停止して受け入れれば大人に守られるが、真面目に疑問を投げかければ潰される。これはいわば、社会生活の予行演習なのである。

「自由」と「責任」

 小学生の頃、担任教師が授業開始の時間を守らない生徒達に対して「そんなに嫌なら時間割を全部自分で決める学校へ行け!できないだろ?だから先生たちが決めてあげているんだ!」と叱ったことがあった。
「そんな学校があるならぜひとも行きたい」と私は心の底から思った

 彼らは「自由には責任が伴う」と脅しのように言うけど、「責任」ってそんなにネガティブなものなの?責任回避や責任転嫁ばかりが横行して、誰も責任を取らない組織が問題になっているよ?自分で行動を選択して、成功も失敗も受け入れることが「大人」なんじゃないの?

「1812年」を聴き比べる

 そんなことを思っていた10代前半の私にとって、クラシック音楽は格好の逃避先だった。加えて、大人たちからも表向き「良い趣味」として受け入れられることも都合が良かった。毎週末に近所の図書館へ訪れてはCDや音楽解説を借りてきて、それを聴いたり読んだりすることが何より楽しみだった。

 この頃、チャイコフスキーの「1812年」をよく聴いていた。何のことはない。大砲の音が盛大に入っていて面白かったからである。
 「ショルティ盤は大砲の音の抜けが良いぞ。デュトワ盤はシンセサイザーが安っぽい。合唱は別になくてもいいな。大砲を大太鼓で代用しているものは論外…」
 そんな風にして聴き比べるうちに、演奏自体にも大きな違いが(ときには大砲の音以上に大きな違いが)あることに気づいた。こうして録音の聴き比べという沼にはまっていく。


「なぜ楽器をやらないの?」

 さて、「クラシック音楽が好き」と言うと決まって来る質問がある。「楽器は何をやっているの?」だ。
 それに対して「いえ、何もやっていなくて…ただ聴くのが好きなだけです」と答えることになる。場合によっては「なんで?やりたくならないの?」と掘り下げられることもある。
 私には楽器を自分で演奏するという発想自体がなかったから、始めはこうした質問にひどく困惑したものだ。

 楽器をやらなかった理由の一つには、妹がピアノを習っていたことが関係していると思う。その練習の様子があまり楽しそうに見えなかったのである。本人が言うには楽しいらしいのだが(でなければ続けないであろう)、堪え性のない私にとって反復練習はとても苦痛に思われた。
 また、常に完璧を目指さなければならないプレッシャーにも耐えられなかったと思う。

 その点、絵は気が楽だった。技術的な巧拙はあるものの、他人からミスを指摘される不安はなく、失敗してもいくらでも修正が効くからだ。中学校の部活動で美術部に入ったのはそのためだ。

「対象」としてのクラシック音楽

 たしかにスコアや楽譜を読んだり、大学時代には合唱をやったりしたこともあった。しかし、私にとってクラシック音楽は自己同一化や内的表現のためのものではなく、常に外部にある「対象」であった。だから、批評するという行為はごく自然なことなのである。

 「難しいことなんか考えずに楽しめばいいじゃん?」とよく言われるが、私にとって「難しいことなんか」を考えることが楽しいのである。食べ物を咀嚼し飲み下し消化するように、音楽を聴き思考し批評することではじめて自分の血肉となるのである。


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