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音楽は少しずつ静かになっている―音圧戦争の後にASMRが再発見したノイズの“親密性”

音楽は年々静かになりつつある。1960年から2021年までのビルボードチャートを調査した研究によれば、半世紀の間続いた音圧の上昇、およびアコースティック性の下降というトレンドは、2010年ごろを境に揺り戻しが見られる。こうしたトレンドの変化は、シティポップやローファイサウンドへの回帰として最も端的に現れている。本稿では音楽が静寂に近づきつつある背景、およびそうした新たな音楽から何を見出すことができるのかを明らかにしたい。

音圧は2010年頃をピークとして下降しつつある
アコースティック性は2010年頃を底として上昇しつつある

星野源は植木等である

歌は世につれ世は歌につれという古い言葉があるように、歌に社会の姿を見出すことは決して目新しい試みではない。社会学者の見田宗介は、1960年代にそれまでの絞り出して歌い上げるような演歌調とは異なるスムーズな歌い方が台頭してきたことを、高度経済成長の時代と結びつけて論じている。

一九六一年に、それまでの「歌謡曲調」(演歌調)の感性世界を破砕するような流行をみせた「上を向いて歩こう」(坂本九)と「スーダラ節」(植木等)が、先陣を切った。植木等は、演歌の発声の基本をなしている「浪花節」の発声法と、ちょうど対極の発声法をとった。浪花節(→演歌)の発声は、肺から息がでてくる途中で、のどにも鼻にも最大限の抵抗をつくり、声を幾重にも屈折させながらしぼりだすような発声です。これに対して、「ビノサンをのんで鼻づまりをなくしたような声」と寺山修司が評した植木等は、のどにも鼻にもなに一つ抵抗がなくて、声がスポンとつきぬける歌い方をする。この抵抗感の非在こそ、この時代の感覚だった。

見田宗介『社会学入門』(2006、強調は引用者による)

見田は浪曲における表情と対比して植木等の写真を紹介しているが、2022年に植木等の笑顔から思い出されるのは星野源のそれである。実際に星野はSAKEROCKのアルバムでスーダラ節を「声がスポンとつきぬける歌い方」で歌い上げている。

星野源に限った話でなくとも00年代のロック、10年代のEDMの歌い方がどちらであったかと言えば右の浪曲調であろうし、20年代の歌手の表情がどちらであるかといえば左の植木等に近いだろう。

このように穏やかな音楽が好まれる状況の背景には、録音した音楽をCDに焼き付ける一歩手前の仕上げを行うマスタリング工程における「音圧戦争(の終焉)」が存在した。

音圧戦争とは何だったのか:弁当箱とカロリー

音量と音圧の関係は、弁当箱とカロリーの関係に似ている。たとえばスタジアムの音響とイヤホンとでは音量=弁当箱の大きさが圧倒的に異なる(ゆえに当然音圧=カロリーも異なる)が、CDにおいてはデジタルな仕様によって厳格に定められた最大音量の中にどれだけ音圧=カロリーを詰め込むかが問題とされた。わざわざそんなことをする理由も弁当とカロリーの関係に似ており、人間の聴覚上、音圧の高い曲の方が「おいしい音」に聞こえる=売れるからであった。

デジタルな音楽において、音量は上限が明確に定められているのに対して音圧に制限はない。しかし音圧を過剰に上げると音質が低下するため、マスタリングエンジニアは音圧と音質を天秤に掛け、多くの場合は音質が致命的に損なわれない範囲で最大限に音圧を稼ぐことを求められた。こうした潮流はLoudness war=音圧戦争と呼ばれた。

しかし、なぜ音圧と音質の両立は難しいのか? 以下は音圧が低い曲と高い曲の波形である。両曲の「音量(一曲の中における最大の音量)」は同じでありながら、後者の方が明らかに圧を増している。音量の低い部分を大きくし、うるさい音を静かにする。これが音圧戦争においてエンジニアが行ったことのほぼ全てであった。

音圧が低い曲の波形
音圧が高い曲の波形

しかし、秩序の下に配置された小さな音と大きな音の関係をあえてフラット化するということは、音をどんどんランダムなノイズに近づけていくことも意味する。

ホワイトノイズの波形
ホワイトノイズの波形(ズーム)

これはホワイトノイズ(ザー、というノイズ)の波形である。見た目からもわかるかもしれないが、このノイズこそが理論上「最も音圧の高い音」であり、実際にジョークとして「音圧の高い曲が聴きたいならホワイトノイズを聞けばいい」という言葉もあったほどだった。マスタリングエンジニアはノイズを排除しながら、総体としては音をノイズに近づけていくという二律背反に苦しめられていた。こうした音圧とノイズの関係は単なる概念上の問題ではなく、実際に音割れや抑揚の喪失など、音質の悪化というかたちで音楽家たちを悩ませ、その問題は音圧戦争の終焉まで解決されることはなかった。

音圧戦争はEDM/Dubstepの流行において頂点を極めた。そこではエンジニアだけでなくプレイヤーであるアーティストに対しても「音圧の高い音作り」が求められた。

音圧戦争は何によって終わらされたか?――ストリーミングサービスによってである。アルバムを一枚通して聴くのであれば、音圧はさほどの問題ではなかった。うるさいアルバムがあったとしても、音量を下げればよいから。しかし、複数のアーティスト、あるいは異なるジャンルさえもプレイリストによって横断する中で音圧が大きく異なると視聴体験が不快なものとなってしまい、それは単に音量を揃えるノーマライズでは対処できない問題だった。そこでSpotifyやApple Musicといったサービスは2010年代後半から、規定以上の音圧を持つ曲に対して音量を下げて平準化するといったシステムを導入した。これは一般にLoudness penaltyと呼ばれ、マスタリングエンジニアたちはペナルティを受けないように仕上げることが最低条件として求められるようになった。

無論、いまでも音圧戦争は形を変えて続いていると言えば言える。しかしそれでも、今が昔より平和であることは間違いがない。

親密なノイズ――ASMR

音楽の話の最中に挟み込むと不自然に思われるかもしれないが、以下では少しASMRについて論じたい。ASMR(Autonomous Sensory Meridian Response・自律感覚経路反応、正式な科学用語ではない)は、「ゾクゾクする」感覚を与えるコンテンツとして定義されている。ご存じない方は(できればイヤホンを装着して)実際に見ていただくのが一番早い。

「ノイズ」としか形容し得ない音が次々に繰り出されるコンテンツは、その一見した「無意味さ」に反して巨大なコミュニティを作り上げている(この動画単体ですら1.4億再生、33000コメント)。日本でASMRは低級なコンテンツとして扱われほとんど学術的な対象としては扱われていないが、英語圏ではASMRとタイトルに示されているものに限定しても100回以上引用されている論文が複数確認できる。
そうした論文をチェックしていると、Intimacy=親密性という単語が繰り返し出現していることに気づく。この単語はASMRを解釈するためにぴったりのものであるように思う。

ASMRは、われわれが日常の「ありふれた」音としてカテゴライズするような音に焦点を当てている。たとえば紙やプラスチックなどのカサカサ音、タイピング、髪の毛のブラッシング、パッケージを開け閉めする音など。こうした音は生活する上でバックグラウンドノイズとして追いやられることが多いが、ASMRは日常の物が発する音に対する注意を呼び起こし、視聴者に感情的な反応を引き起こす。これらの音が親密であるのは、そうした音を聴くためには物理的に近づかなければならないからである。

Naomi Smith, Anne-Marie Snider "ASMR, affect and digitally-mediated intimacy" (2018)

もしかしたらASMRのもたらす「親密性」を錯覚や詐欺の産物であると思いたくなるかもしれないが、その場合は真っ先に次のことを考えてみなければならない。――錯覚や詐欺の生産者でない音楽というものはこれまで存在しただろうか?

音楽はこれまで――とりわけキリスト教に基礎を置く「西洋音楽」においては――聖なるもの、偶像崇拝が禁じられた中での「神の声」としての役割を求められてきた。すなわち音楽とは人類史上長らく、聖なるもの=緊張を要する対象であった。そうした音楽の自明の前提が掘り崩されるのは19世紀末以降のシェーンベルクやサティらを待たなければならないが、現代においても音楽は必ずしも親しみやすい対象ではない。そうした緊張関係がもっとも明確に表れているのが「ノイズ」の世界である。

20世紀のASMR――ノイズ/ミュージック

有史以来「音楽とは何であるか?」という問いは際限なく繰り返されてきたが、第二次世界大戦がもたらした技術によってその問いは前進した。すなわち精密な録音が可能になってはじめて、音楽の補集合である「ノイズ」とは何であるか? という逆向きの問い方が可能になったのである。それをもっとも象徴的に示したのは無論ジョン・ケージによる「4分33秒」(1952)だろう。よく誤解されているが「4分33秒」は「無音の曲」ではない。そうではなく、観客やピアニスト、ホールの設備といったものが不可避的に響かせてしまう「ただの音」に対する音楽に向けるような注意を求めた曲であって、むしろ「無音の不可能性」を示した曲であった。

数年前にハーバード大学の無響室に入ったとき、私は高い音と低い音とのふたつを聴いた。エンジニアにそのことについて質問すると、高い方は私の神経系が働いている音であり、低い方は私の血液が循環している音だと教えてくれた。私が死ぬまで音は鳴り続ける。そして私が死んだ後も音は鳴り続けるだろう。音楽の未来について心配する必要はない。

John Cage "Experimental Music" (1957)

ケージの「4分33秒」は、その後の現代音楽が辿る道筋を決定づけた。これが音楽でありうるなら、音楽はもっと多様で(非「西洋音楽」的で)ありうる、ということに多くの人々が気づいたのである。

ケージは音楽の極限を示したが、しかしそれが音楽の結論であったかといえば当然そうではない。それは「4分33秒みたいな曲」が世界を埋め尽くしていないことからも明らかである。そうした中で音楽とノイズの境界に挑んだ潮流のひとつとして、「音響派」と呼ばれる一群がある。本稿の文脈において私はこれらをASMRの先駆けとして位置づけようとしているが、まずは音響派がなんであるかを批評家・佐々木敦から引用する。

まずもって、「音響派」とは、「楽曲」それ自体よりも、「音響」を優先させる姿勢である、と述べてみよう。
それは言い換えるなら、コンストラクションよりもテクスチャーを重要視する、ということである。たとえば、アナログ・シンセが奏でる不定形の電子音に、あるいは、延々と轟音で続くギターのフィードバックに、ひたすら耳を澄まし、神経を滲ませ、感じ入ること……それは多くの場合、ある特定の音色を愛でる姿勢であるとも言えるだろう。
つまり、それは一種のフェティシズムの形を取っている。それは、その曲の構造/構成を把握し(ようとし)つつ聴く(=理解する)のではなく、音の表面の泡立ちや襞に触れる、包まれる、聴く(=感受する)ということなのだ。

佐々木敦『テクノイズ・マテリアリズム』(2001)

以下は佐々木が同書において紹介しているフランスの現代音楽家リュック・フェラーリによる1970年の作品である。私はこの古い作品がのちにASMRと呼ばれる要素を余さず揃えていることに驚かずにはいられない。風の音、虫の声、川のせせらぎ……、これをASMRと呼ばずしてなんと呼ぶのか?

この"Presque Rien"という「ほとんど何もない」作品について、佐々木は次のように論じている。

〈プレスク・リヤン〉は、まるで昔のドキュメンタリー映画のサウンドトラックだけを聴いているかのような、奇妙な錯覚を催させる。それは実際には、何の変哲もないフランスの港町の朝の光景だったのだろうが〔引用者注:実際は旧ユーゴスラビアの港町で数日掛けて録音したようだ〕、その時、その場にはいなかったわれわれは、フェラーリによって「その時、その場」から枠取られ(=選択され)、最低限のエディットを施された「音」を聴くことによって、ただ漫然と「その時、その場」に居合わせていただけなら、まちがいなくまったく意識することさえなかったであろう、自然と現実が奏でる「音響」の豊かなパノラマに気づかされ(=認識し)、それを一種の「音楽」として鑑賞することになる。

佐々木敦『テクノイズ・マテリアリズム』(2001)

佐々木は「最低限のエディット」と呼んでいるが、むしろ実際にはこの作品が単なる「ありのまま」のフィールドレコーディングではなく、数日分の録音から20分の素材を選り抜く緻密な編集=コラージュによってひとつの世界を作り上げていることには注意が必要である。巧妙に編集された録音は、聴取者にとって単なる「録音の再生」ではなく、スピーカーの向こう側にもうひとつの世界があるかのような錯覚を与えることに成功している。しかしあくまでその「世界」は編集によってはじめて立ち上がるものであることは強調しておきたい。なにも編集されていないフィールドレコーディングはただ単に退屈なものでしかないだろうから。

こうした音響派の試みは、ASMRにおけるような親密なコミュニケーションの先駆けとしてみなすことが可能であるように思う。そのことは第一に音に対するフェティッシュ=物神崇拝的な態度に見て取れる。もちろんASMRが音響派の理論や音楽を参照しているわけではなく、収斂進化の結果として見なすべきではあるだろう。しかしむしろその「偶然」は、かつて先進的な現代音楽家しか気付かなかったことに、こんにちのわれわれが自然に慣れ親しんでいることを教えてくれる。

近代、神々がノイズと呼ばれる時代

以上で見てきたように音楽にとっては第二次大戦以後に発見されたノイズであったが、ノイズはそれまでどこにいたのか? と問うてみることは、いま現在の音楽/ノイズについて考える上で有益である。ノイズ以前のノイズはどこにいたのか?――神の世界に。

近代という時代はマックス・ウェーバーによれば「魔術からの解放」の時代である。たとえばテクノロジーやバイオロジーといった単語の-logyとは、ギリシャ語におけるlogionから派生した接尾辞であるが、ここで以下のことを指摘しておきたい。かつてlogionは神託すなわち「神の言葉」を意味したが、こんにちの-logyはむしろ神の排除を意味している。

そうして退けられた神が事後的にノイズと名付けられたのだ。ノイズは科学万能の時代にあってシグナルを阻害する「無意味な」「邪魔な」ものとされ、引き続き排除が試みられた。しかし狭い意味での近代ですら1世紀以上を数えた現在、実際にはノイズ=神がそうやすやすと死ぬ存在ではないことをわれわれは知っている。

たとえばテクノロジーの粋であるインターネットは、プライバシーを保つ暗号化のために乱数=ノイズを必要不可欠としている。現代の技術においてさえ、あるいはあらゆるものが予測可能とされる現代であるからこそ真に予測不可能なノイズを作り上げることは決して簡単ではない。そのため暗号のために用いられる乱数は、時として宇宙線のゆらぎをわざわざ計測して作り出されることもある。

この点においてノイズは奇妙な両義性を帯びる。すなわちノイズはテクノロジーの内側にありながらテクノロジーを越え出るものとして「発見」される。

はじめ近代は「魔術からの解放」の名の下に神の世界への干渉を拒み、排除を試みた。しかし神から解放された時代にあっても、相変わらずわれわれはノイズを求めている。テクノロジーは確かに素晴らしく、われわれの生活に必要不可欠なものではある。しかしテクノロジーが全てを覆い尽くしてはならない、そうした考えが近年の「音」をめぐる状況には表れているように思われる。世界が科学以前や宗教以前、あるいはサピエンスの誕生以前からただそこにあること、しかし必ずしも世界はよそよそしいものではなく「親密な」ものでもありうること、そうしたことに気づかせてくれるものとして、こんにちの「音」を考えてみることはできるだろう。

謝辞・あとがき

この文章は思想・哲学・文学・芸術をテーマとしたDiscordサーバー・ARPLAのアドベントカレンダーの23日目として書かれた。これを書くにあたり友人の永田希さん(@nnnnnnnnnnn)にはノイズの歴史について多くのことを教えていただいた。無論この文章における全ての誤りは筆者の責任である。


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