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ひとは一人で勝手に助かるだけ。 自分の正義を他人に振りかざさない | 西尾維新さん 『化物語』

「ひとは一人で勝手に助かるだけ。
 誰かが、誰かを助けるなんてことはできない」

こんな言葉を口にする人を見かけたら、救いの手を差し伸べてくれない冷たい人と思うだろうか。それとも、誰かに頼ることのできない寂しい人だと思うだろうか。

これまでの日本では、自分のことは自分ひとりで解決しなければならない思考の呪縛が強かった。自己分析も内省もひとりで行うのが当たり前。だが、現在はコーチングやカウンセリングが徐々に当たり前となり、ひとりで完結せずに支え合う時代になってきている。

そういう時代において、「ひとは一人で勝手に助かるだけ」という言葉は、ひどくドライな言葉に映るだろう。

ただ、相手のために何もしないわけではない。力は貸す。力は最大限に尽くすのだけども、それによって相手を助けることが「できる」と思い込むなんて、とても傲慢なことかもしれない。思い上がりも甚だしいのかもしれない。そんな自戒の念を、この言葉は帯びている。

これは西尾維新さん『化物語』を象徴するセリフであり、現在、僕が自分への戒めとして刻みつけたいと感じている言葉だ。

『化物語』とは、BD・DVD累計出荷数が200万枚以上の人気アニメシリーズ『<物語>シリーズ』の第1作目。些細なキッカケで、作品に触れてみたところ、瞬く間にその世界の虜になってしまった。

作品を読み進めていくと、主人公である阿良々木暦(あららぎ こよみ)の必死に奔走する姿に何となく自分を重ねてしまう。そして、彼を導く役どころの忍野(おしの)メメの言葉にハッとさせられることの連続だ。この忍野さんこそが、冒頭の言葉の持ち主でもある。

今回は、化物語の魅力。そして、「他人を助けることはできない」という言葉の真意について語っていきたい。


友達はいらない。人間強度が下がるから。

そもそも、<物語シリーズ>とは、どんな物語なのか?

平たく言うと、主人公・阿良々木暦の高校生活最後の1年間で遭遇する様々な事件を通じて、彼の変化を見届ける物語だ。

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(▲)公式サイトから抜粋

阿良々木君は、春休み中のある事件をキッカケに吸血鬼の力を持った人間となり、それを契機に「怪異」と呼ばれる人間に取り憑く存在に悩まされる女の子達に次々と出会うことになる。各物語の大枠としては、阿良々木君が彼女達を助けるために奔走するというもの。

化物語からはじまり、化物語の前日譚である『傷物語』『猫物語(黒)』や、化物語の続編である『偽物語』『猫物語(白)』など、複数の物語を通じて、阿良々木君の一年を追うことになる。

シリーズの集大成的な立ち位置である『終物語』の予告動画が、シリーズ全体のダイジェストのように制作されているので、こちらを観てもらえると理解を助けるかもしれない。

さて、この阿良々木暦とは、どんな人物なのか?

一言でいうと、義務感に囚われている男の子だと思う。

それを象徴的に表わしている言葉が、物語当初の彼の口癖である「友達はいらない。人間強度が下がるから」ではないだろうか。

「友達を作ると、人間強度が下がるから。つまり、友達がいたら、友達のことを気にしなくちゃいけないだろ? 言ってみれば弱点が増えることだと思う。それは人間としての弱体化だ」

友達だったら、相手のことを気にしなくちゃ「いけない」。友達が苦しんでいたら、助けなきゃ「いけない」。でも、その義務を背負うのは苦しいから他人と距離をおく。そんな冷めた眼差しで他人をみる青年だった。


自分の正義を他人に振りかざさない。

そんな阿良々木君は、春休みの事件がキッカケで、自分と同じく「怪異」に苦しむ人を救いたいと意志が目覚めていく。

そして、当初の彼は完全なる「正義マン」だ。

目の前に困っている人がいたら助ける!なぜなら、困ってるのだから!それが当たり前じゃないか! そんな風に、助けることに理由はいらず、自分を犠牲にして相手を助けることが正しいと信じてやまない正義マンだった。

だが、助けるとは容易ではないことが次第にわかってくる。

それは、「怪異」とは取り憑かれた本人の願望や呪い、または精神的ストレスが姿を変えたものだからだ。怪異の正体を探るうちに、取り憑かれた本人は、目を背けていた自分の内面と向き合うこととなる。

「正しさなんて最初からない。あるのは正しさじゃなくて、都合だ」

願いと呪いは表裏一体というが、自分が抱えているものを「救い」と呼ぶか、「怪異」と呼ぶか。それは、その人の都合でしかなく、絶対的な正しさなど存在しないと、阿良々木君を導く忍野さんは言う。見方を変えると、怪異とは現実に耐えられない自分が生み出した「甘え」でもあるのだ。

そのため、怪異によって苦しんでいる現状を、自分の外へと責任放棄しようとする相手への忍野さんの言葉は鋭い。

「被害者面が気に食わねえっつってんだよ、お嬢ちゃん」

僕らのいる現実世界でも、苦しみの元を正せば、自分自身に何かしらの原因があることが多い。そして、その原因は様々な要素が複雑に絡み合っていることばかり。育ってきた環境だったり、教え込まれてきた価値観だったり、過去のトラウマだったり。その人自身が自分を理解し、内面世界を変えようと願わない限り、手の施しようがない。

つまり、第三者が勝手な正義感を振りかざして、自分の力で相手を苦しみから救うなんて到底不可能なのだ。

とはいえ、阿良々木君の気持ちもわからないではない。むしろ、すごく理解できる。 目の前に苦しんでいる人がいたら、救いの手を差し伸べたほうがいいのではないか!? 僕も変な正義感が芽生える時がある。

だけども、あくまで相手の問題は相手の問題。そのうえで、自分はどうしたいのかを冷静に考えることが大切なのだろう。何でもかんでも助けようとしてしまう阿良々木君に対する忍野さんの言葉は、僕自身もグサリと刺さる言葉だった。

「阿良々木くんは、本当に優しいよね。優しくていい人だねえ——優しくていい人だよ。胸がむかつくねえ、本当にもう。その優しさで一体どれほどの人を人間を傷つければ気が済むんだろうね?

自分の正義を他人に振りかざさない。

僕が、阿良々木君と共に学んだ最大の教訓であり、「他人を助けることはできない」という言葉の真意である。


突き抜けた自己満足は時に誰かの心を動かす

では、他人への干渉はやめたほうがいいのか?

それは違う。大切に思う相手、何とかしたいと思う相手に対して、行動を起こさないわけではない。

肝心なのは、自分が動く理由を、自分の中に求めることだ。

先ほども紹介したように、当初の阿良々木君は、友達が困っていたら助ける「べき」という、自分勝手な正義感のもとに行動していた。自分犠牲こそが善であり、それを行うことが正しい人間だと信じていた。

だが、この世の中に絶対的な正義なんてない。あるのは都合だけだ。ある事象も、別の角度から見ると、全く違う見え方になることを身を以て学んでいく。忍野さんのセリフで印象に残っている言葉がある。

「味方なんてしないさ、中立だ。強いて言うなら物の見方って話だ。委員長ちゃんには委員長ちゃんの見方があり、ご両親にはご両親の見方がある。そして第三者には、どちらが正しいかなんてわからないさ」

では、何のために動くのか? それは、自分の都合。言うなれば、自己満足のためなのではないだろうか。

他人が困ってる。だから助けるは「自己犠牲」
なんとかしたい。だから動くは「自己満足」

この違いは、とても大きいと思う。何が正しいかなんてわからない。だけど、自分は「〇〇したい」と思ったから動いた。その結果の責任は、自分でとる。自己満足というと、ひとりよがりな響きがあるが、自分を100%納得させられるように動くことは、実はすごく難しい。

そして、突き抜けた自己満足は、相手の心を動かすキッカケにもなる

阿良々木君のセリフで、僕がすごく印象に残っているのは、『猫物語<黒>』で、両親との長年の不和によるストレスが原因で怪異と化してしまった女の子(羽川)に対する言葉だ。

(忍野)「同情かい?」

(阿良々木)「ちげーよ。不幸な女の子なんて萌えるだけだろ。僕は欲求不満を解消したいだけなんだ。僕はただ、ねこみみ下着姿の女子高生に欲情してるだけなんだよ」

この阿良々木君の心の変化を見て取れるのが、『偽物語』で妹たち(通称、ファイヤーシスターズ)に向けて放つ言葉だ。まるで過去の自分自身に言っているかのように感じられる。

「理由を他人に求める奴が、正義であってたまるものか。他人に理由を押しつけて、それでどうやって責任を取るというんだ。お前達は正義でもなければ正義の味方でもない。正義の味方ごっこで戯れる——ただのガキだ」

そして、この章の最後に、阿良々木君の成長を感じる最も好きなシーンを紹介したい。それは『猫物語(黒)』のラストで怪異と化した羽川と向き合う場面だ。「不幸だから、助けないといけない」ではなく、「不幸な現状は変えられないが、それでも僕は羽川の近くにいたい」という阿良々木君の切実な願いを感じることができる。

(阿良々木)「ほんっとお前ツイてないよな。運が悪いぜ、不幸過ぎる。だけどさぁ、いいじゃねーか…それくらい。不幸だからって辛い思いをしなくちゃいけねーわけじゃねーし、恵まれないからって拗ねなきゃいけねーわけじゃねぇ。やな事あっても元気でいいだろ。

お前ってやつはこの後、何事もなかったような顔をして家に帰って、退院したお父さんとお母さんと、またこれまでと何ら変わりない、おんなじような生活を送る事になるんだ。一生、お父さんともお母さんとも和解できねぇ。僕が保証する…!万が一、将来幸せになっても無駄だぞ。

どれだけハッピーになろうが昔は駄目だった事実は消えちゃくれないんだ。忘れた頃に思い出す…一生夢に見る。僕たちは、一生悪夢を見続けるんだ。現実は何も変わらねーよ。

だがな、僕はお前に絶対同情しねーぞ。

猫を理由にするな…怪異を口実にするな…不幸をバネに成長するな。そんな事をしても結局、自分で自分を引っ掻いてるようなもんじゃねーか。怪異なんて、本当は居ないんだぜ…それこそ嘘なんだ。

それでもストレスを発散したいってんなら僕が全部引き受けてやるよ。お前の胸をいつだって触りまくってやるし、下着姿のどこだって見てやる。だからそれで我慢しとけ。いくらでも時間を作るよ…友達、だからな」

(羽川)「ほんっと阿良々木くんて最低…頭が痛くなる。阿良々木くんはスターにはなれてもヒーローにはなれないよね。」

(阿良々木)「スターにもなれねーよ、僕がなれるのは吸血鬼だけだ」


曖昧なようで、しなやかな生き方。

物語シリーズを読み進めていくと、世界は複雑で、何が正しくて、何が間違っているかなんて、簡単に割り切れないことを改めて思い知らさせる。忍野さんのセリフでこんな言葉がある。

「命とお金とどっちが大切なんだって質問があったりするけれど、これは質問自体がおかしいよ。お金と一口に言っても、一円と一兆円じゃ、価値が違うんだし、命の価値だって、個々人によって平等じゃない」

そして、忍野さんはこう教えてくれる。

大切なのはバランスだと。

絶対的な正しさなど存在しないことを前提に、良くもないかもしれないけど、悪くもない。少なくても、良い方向には向かっていると信じられるのであれば、良しとする。

そんな曖昧なようで、しなやかな強さを持った忍野さんの生き方。そして、自分なりの正解を見つけ出そうと必死に奔走する阿良々木君の姿に、カッコ良さを感じてしまった。

<物語シリーズ>のそれぞれの物語は、どれもハッピーエンドなのか釈然としない曖昧な終わりで幕が降りる。ただ、ひとつ言えるのは、物語をくぐり抜けた彼らは、何かしら自分の答えを見つけたことだ。

阿良々木暦が、阿良々木暦を見つける物語。

<物語>シリーズを一言で表するなら、これに尽きるかもしれない。そして、阿良々木君の後ろ姿を通して、観ている僕らも自分に想いを馳せることができるのが、このシリーズの魅力だと僕は思った。


本当に深刻なことは、陽気に伝えるべき

今回、<物語>シリーズをかなり真面目に語ってきたが、物語シリーズの8割くらいは、登場人物たちによる茶番劇だ。とても中毒性のある茶番劇で、キャラクターの掛け合いを観ているだけで幸せな気持ちにもなる。

西尾維新さんも、小説版のあとがきで、とにかく馬鹿な掛け合いに満ちた楽しげな小説を書きたかったと語っている。

僕は、このスタイルがとても気に入っている。

伊坂幸太郎さんの小説『重力ピエロ』には、こんなセリフが登場する。

「本当に深刻なことは、陽気に伝えるべきなんだよ」

伊坂さんの作品も、ミステリー要素や、ユニークな会話が豊富に盛り込まれているためエンタメ小説として親しまれているが、どの作品にも人生の難しさや、生きるエールのようなメッセージが裏に込められている。

<物語>シリーズも、全く同じだ。これでもかという茶番の連続がありつつも、ふと気がつくと深い世界へと誘われる。そして、深い話をしていたと思ったら、いつの間にか茶番に戻っていたりする。

楽しくて、深い

これぞ、物語が目指す理想形のひとつだと思う。


あとがき

最後まで読んでいただき、ありがとうございました!

今回は物語シリーズについて語ってみましたが、正直、まだまだ語り尽くせません。今回は、阿良々木君と忍野さんを中心に語りましたが、貝木泥舟と忍野扇も負けないくらい好きなんです。

「私は何も知りませんよ。あなたが知っているんです。阿良々木先輩」

この扇ちゃんのセリフに何度ゾクッとさせられたか……。また、別の機会に書いてみたいと思います。

ちなみに、僕が「<物語>シリーズ」を見始めたキッカケですが、実は、たまたま『恋愛サーキュレーション』のカバーをYoutubeで観て、「むちゃくちゃいい曲じゃないか!」とハマったのがキッカケです。この曲が主題歌のアニメがあるらしいということで、見始めたんですね。

この記事が、物語シリーズを楽しむ人の何かしらの参考になれば幸いです。ありがとうございました!


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