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「多様性」は絶対正義ではない。むしろ「同質的」であることも許容するのが「多様性」だ

ここ数年、SDGsが採択された時期くらいから「多様性」「ダイバーシティ」という言葉をよく聞くようになりました。

一人ひとりの多様性を認めよう、マイノリティの人にとっても暮らしやすい世の中にしよう、という流れは僕も賛成です。

ただ、「多様性」「ダイバーシティ」をむやみに使いがちではないか?と感じることもあるのです。

「多様性」というのは、「何らか」の目的を達成するための手段であるというのが僕の認識です。その「何らか」というのは、人や社会によって異なりますが、おおよそ「誰も取りこぼさない社会」「すべての人が幸せに生きれる社会」という方向のものではないでしょうか。

確かにそういった目的を達成するために「多様性」を許容することが重要になってくることは、言うまでもないことであると僕も思います。

ただ、それは同質であることを排除して、何が何でも多様にするということではないとも思います。なぜなら、同質であることで生まれる価値・守ることができる価値があると思うからです。

なぜそのようなことを思ったのか。僕は先週、京都に旅行に行ったのですが、文化的な素晴らしい場所に出会うたびに、そのようなことを感じました。

京都のような、日本の文化や伝統を守っている街にダイバーシティという概念を取り入れて、街の中に教会やモスクが建つようになった場合、街としての価値は落ちてくるでしょう。

京都の文化的価値は、言い方が悪いかもしれないですが、排他的な性質によって守られていると感じるのです。例えば、景観保護の条例は「日本の伝統的な町並みに沿った建築物以外は認めない」というある意味排他的なルールです。

実はヨーロッパでは、歴史的に個人の権利に対して市民が強い意識を持っていますが、景観に関しては共有財として認識されているので自分の土地であっても景観を守るために使用方法が制限されていたりします。

SDGsはヨーロッパ型の倫理・ルールを元にしているものですから、そういった部分も知らないと「多様性」の意味を履き違えて「何でも受け入れればいいのだ」となってしまうなと思いました。

上にも書いたように、同質的で排他的だからこそ守られる伝統や文化もありますし、エッジが効いた伝統や文化が生まれるものではないでしょうか。

つまり、本当の意味での「多様性が認められた社会」というのは、「同質的なコミュニティ」と「多様な人が集まったコミュニティ」の両方が共存する社会ではないかと僕は考えています。

そもそも全世界でダイバーシティを推進しきると、そこには無個性で同質的な世界が待っています。

つまり、白人、黒人、アジア人、ヒスパニック、その他人種だけではなくさまざまな属性を持った人たちが混ざりあうと、逆に同質的になるのです。全世界のどこにいっても、全人種の人がいるというのは逆に同質的ではありませんか?

「排他的であることは悪だ」というのは、果たして本当なのかどうか?誰も取りこぼさない社会や組織をつくるべきというのは、僕もそう思います。

ただ、ダイバーシティとはそのための手段のひとつであり、場合によっては捨てたほうがいいものでもあります(絶対ではない)。

ダイバーシティの重要性が叫ばれる中で、「多様」と「同質」をどのくらいのバランスにするべきか?0か1かの議論ではなく、その中間というポジションも含めて、考えて見る必要があると思いました。偉そうにすみません。

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