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"わからない"の地平を見つめて

他人と話していて初めて言語化できることがある。言葉にしてみて初めて「あ、そっか、自分ってそう思ってたんだ」なんて驚かされてしまうことがある。

ここ最近、哲学だけではなくて詩(現代詩や短歌)についてもとても興味が湧いていて、そのことについては自分の中である程度言語化しているけれど(イデア論,論理空間,詩作的思索,身体知etc.)、そんな話を他人にしてしまっては大抵引かれて「ははは、なんかよく分かんないですね」って言われてしまうのがオチなので、そうそうこの話はしないように気をつけていて。(ちょっと悲しいけど仕方ない)

ただその代わり、それでもなんだか話の合う人との会話が弾むとそれに近しい話題になることはあって、そんなときはその場で思いついた感覚を生のまま言語化して話してしまう。
つい先日も、お客様と"詩集のどんなところが好きなのか"みたいな話をしていて、初めてする説明の仕方を言葉にしながら「なるほど、そんな風に捉えていたんだ自分って」なんて感心(?)することがあって、そこからなんとなく思考がひとりでに巡っていったことがあった。

「詩は哲学やエッセイとかとは違って、詩人と読者との距離がすごく離れているから、その余白にそれぞれの心象風景を重ねて読む、そんな詩人と自分が2人だけで心の風景をつくる感覚がおもしろいんです」

後から思い返すと、こんな風なことを僕は言っていた。確かにもともとこれに近いことは考えていたけれど、きちんと口語文章に言語化して話したのは初めてだった。

哲学やエッセイ、文学などは読書体験そのものが著者との対話のようだと個人的には思っている。著者の心の機微や喜怒哀楽、問いの設定や世界の観照について理解をしていきながら、深いところまで、ギリギリ近くまで心の距離を縮めていくような対話。どこまでいっても絶対に本人までは届かない寂寥感と、それでも一歩ずつどこかにあるはずの心の温かみに手を伸ばす真摯な姿勢を貫き通すことに読書体験の魅力のひとつがある。

それとは違って詩というものは抽象的、それも形而上学的というよりももっと漠然とした心象風景的すぎて、詩人の心までにどうしても、どう頑張ってみても一向に全く届きそうにもない。
そんな"わからなさ"に詩を敬遠してしまう人は少なくないのではないだろうか。かくいう僕自身もそうだった。

お客様と話していて初めて言語化した自分自身の感覚は、そんな"わからなさ"、"わかりあえなさ"を肯定して抱きしめるような、全き他者に静謐な眼差しを向けるような、そんな感覚だったように思う。

言葉(言語化)がイコールそのまま本人の思考そのものではないし、サルトルは『実存は本質に先立つ』なんて言っていたけれど、本質(個人がもっている知の総体)と実存(現実に存在していること)の境界線は波打ち際のようにゆらゆら揺らめいている。

『私たちは語ることができるより多くのことを知ることが出来る』。ユダヤ系ハンガリー人のポランニーという科学哲学者はその感覚を"暗黙知"ととして哲学的に捉えようとしていた。

言語化、言語化〜!となんでも言葉にさせられてしまうような言語化ハラスメントが経済合理性の名の下に声高に叫ばれる昨今、逆説的に身体性や身体知、あるいは知という概念そのものの在り方をここ最近考えている。


そんな中で、初めて言語化した、おそらく身体知的、暗黙知的に観取していた"わかりあえなさ"に対しての全き肯定の感覚は、詩だけではなくて、本質的に全てのものごとに共通する普遍的な感覚なのかもしれない、なんてことも思った。


僕たちは言語知でも(あるいは身体知でも)"わかる"/"わからない"という二元論的な感覚でものごとを判断してしまいがちなように感じている。

言語知と相性の良いタイプの人であれば「哲学はわかる、詩はわからない」だし、身体知と相性の良いタイプの人であれば「周りの空気はよくわかる、ビジネスの合理性的感覚はよくわからない」のように。(単純化しすぎてこの例えに本質的な意味はないと思うけれど...)

だけど、本質的な意味で"わかる"ってなんだろう。僕はなにをわかっているんだろうか。なにをわかることが出来るのだろうか。

他者に限って言えば、本当は哲学の他者問題で問われるように、自己と他者の絶対的な境界線は、"絶対なんて絶対ない"と言われるこの世界においても"絶対に"越えられない、交わることのない永遠の平行線だ。

どこまで近似できるのか、どこまでは理解できるのか、という過程に関係なく、最終的な帰結は"わからない"に終着する。

だとしたら、僕はそもそもの問いの設定が間違っていたのかもしれない。

哲学(哲学者)はわかる、詩(詩人)はわからない、ではなかった。本質的にはどちらも"わからない"、そして著者との対話の営みにおいて、その構図はどちらも"絶対に埋まらない距離の余白を個人の思索、体験を元に著者と一緒に埋めていく"という意味では同じようなものなのかもしれない。

フランスのポスト構造主義の哲学者デリダは『全ての他者は、全き他者である』と言っていた。

わからない、絶対に届かない他者、全き他者...。
だとしたら。

僕たちに大切なのは"わかった気にならない"ということ、それこそが唯一の他人を尊重する方法なのかもしれない。そんなことをふと思った。


人はすぐわかった気になって他人を見下してしまう(自戒もこめて)。それは隣人に対しても、遠い人物に対しても、歴史上の人たちに対しても同じだ。たったN=1のサンプルを元に「自分だったらもっと上手くやれる、そうはならない、愚かなやつだ」とバカにする。
哀しきかな、それがホモサピエンスの認知特性なのだろう。自分自身を過大評価し他者を過小評価し、自分のスケールでしかものごとを測れず、それらの背景にある深淵にその都度思いを馳せないことで認知コストを下げているのかもしれない。

確かにそんなこといちいち考えていたら大変だ。あの人にもこの人にも、彼にも彼女にも、それぞれの人生があって、家族がいて、世界観があって、正義があって、そんなことを(接触-非接触に関わらず)全ての人間関係において常に考え続けることはいくら意識をしていたとしても認知コスト的にキャパオーバーで、実質不可能に近いのかもしれない。

だけど、それだけが唯一の他人を尊重する方法なのだとしたら。

僕たちは他人をわかった気になってはいけない。絶対に埋まらない距離に絶望して、突き放してはいけない。他者との間に横たわっている深淵を見つめ続けて、"わからない"ことの自覚を、それでも手を伸ばす真摯な姿勢を大切にし続けることこそが、人間関係というゴールもルールも曖昧なゲームの唯一の攻略法なのかもしれない。


僕たちは、詩について"わからない"と思う感覚と同じだけの"わからない"を他人に対しても自覚しなければいけない。
サルトルが言うように実存が本質に先立つとしても、実存は本質とイコールではない。目に見えない心象から、言葉に、そして行動に変わっていくとき、その本質は少しずつ零れ落ちながら、言葉で言い表せないもの、行動で示しきれないものを欠いて相手に(僕たちに)届いている。

僕たちは相手の本質について、本当はなにもわかっていないのだ。そしてどれだけのテクノロジーが発展していったとしても終ぞ相手の本質に届くことはたぶんないのだろう。


会話の中ではじめて言葉にした詩との関わり方から哲学がはじまって、他者の問題に行きつき、"わからない"ことの自覚と、そして"わかろうとする"ことの継続と努力を大切にしたい、という内省へと思考は巡っていった。

その努力が最終的に結果で報われることは絶対にないとしても、それでも手を伸ばそう。対話を続けてみよう。

わかりたいと願って、わからないと嘆いて、またわかりたいと祈る。そんなダニングクルーガーの曲線を泳いでいくように。

わかろうとした結果で報われることはなくても、わかろうとする過程ではきっと美しくて、妙(たえ)なる心象風景に出会えることもあるだろう。

1人ではつくれない、2人だからこそつくれる風光明媚な心の風景。それはきっと途方もなく遠く霞む山頂ではなくて、道端に咲く花に、振り返った時の足跡に、隣で歩く誰かの笑顔に宿るのかもしれない。

論理(言語知)的にではない、僕たちは身体知的にそのことをよく知っている。

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