5月10日の日記 できない自分を見る痛み
ついに4期の講座が始まり、それを翌日振り返った日記です。
ヒリヒリするような痛みを思い出せます。
5月10日の日記 できない自分を見る痛み
昨日髪を切って、講座初回に臨んだ。
準備もすり合わせもチグハグだった。いらない話し合いを何度も繰り返していたと分かった。
できなくなったことが、場に立つたびにはっきりしてくる。その残念さ、不甲斐なさが、一番得意だったはずのところだからこそ、刺さってくる。
場が求めていることが分かり行動できるということが、場づくりにおける最大の長所だったはず。しかし今、その感性がはっきりと弱い。
自分の言葉が冗長だということが、ことだけが、痛いほどにわかる。
でも、怪我したてのそれすらわからなかった頃と比べれば。楽にいれらる場ですら頭が追いつかなかった時に比べれば。
それはそうだ。
でも普通の人ができないことができたから価値が高かったんだ。
1人の相手としっかり話すよりも、場全体のことを察知することの方が得意。だからこそ。
でも今は、それができない。
どうしよう。ファシリテーションができないのなら、編集の世界に戻ろうか。
自分と対話して言葉を生み出し磨いていた方が、取材をしていた方が(その場でメモも取れないし問いも出せないけれど)
アウトプットを書き手とともに作り上げていった方が、あるいはまだ…
一方で、「できない自分を意識できるようになった」ことが今の価値だとすると、「できなさ」をより端的に、分かりやすく言葉にできないだろうか。
できないことそれ自体が痛いほど分かる今の自分。
メタ認知の能力だけは健在なのが辛い。
それは辛い。
でもそれを学問ファシリ講座に活かせないだろうか。
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「場を感じて変える=ファシリテーション能力」は、今は戻って、むしろより単純で、より楽に自由に、できるようになったと思います。
昨日はファシリテーションをしていて、「流暢に話す自分が本当に外側から眺めることができた」瞬間があってビックリしました。
最近はN高のフロアファシリで高校生と一緒にいて、彼らが今欲しいものを自然と察知しながら、前より自分も楽にいることができました。
明らかに、フェーズが変わっている。
それはできなくなったおかげなのかもしれないし、関係ないのかもしれない。
でもあの出来ない自分を見つめていた頃のことを、痛いけどもう少し思い出して考えてみたい気もします。
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