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やっぱり死ぬ勇気は出ないもので

それが勇気と思ってる時点で死ねないんだろう、考える余裕があるんだからね。

思い過ごして幾星霜、実年齢に認識が追いつかなくなり、何歳で死にたいとかも今は無い。だからと言って長生きしたい気持ちも、別に無い。なんとなく生き続けてしまいそうだ。

明確な希死念慮とまではいかない"芽"みたいなものが思春期からずっと心の片隅にある。厭世観や反出生主義も、顔を出している部分こそ少しだが、深く根を張っている。生まれるというのは「産むことをされている」、自発的に聞こえて酷く受動的な始まり方なのだと感じる場面が多々ある。I was born to 何?っていう。


以下、特定の誰かを否定する意図はないのだけど、ずっと不思議に思っていたことがあった。

ざっくり言うと「子供がADHDと診断されました。私の幼少期と似ていたので先生と話したら、あなたもそうかもしれません、と言われました。生きづらかったのはそのせいだったんですね」みたいなエピソード。

……いや生きづらい世の中に子ども産み落としたの??それ子どもにとって幸せなの??ってハテナしか浮かばなかった。それは産まれた側の気持ちだ。

命の選別になってしまうという倫理観は承知の上で、出生前診断で病気や障害が発覚したり、或いは望まない妊娠だったり、産むか産まないかの判断はどちらにせよ親よがりになってしまうんだなと複雑な気持ちになる。どちらが幸せかなんて生まれて育ってみなきゃ解らなくて、生まれた時は不幸でも幸せになる可能性はいくらでもあるし、逆もあるし、ずっと不幸かもしれないし。

上記の話は実際、自分の親にも思っていたことなんですね。診断されてる訳じゃないけどグレーなんだろうなぁと思う部分が親にも自分にもあって、なんでそんな辛かったのに産んだのかなって。

でもやっぱり味方が欲しかったとか、そんな気持ちなんだろうな。産んで良かったって言うし。生きづらかった親の役にすこしでも立てているなら、決して積極的に生まれてきてよかったとは思えてないけど、でも意味があったのかな。

育てられたように育ててしまうものだし、気質も遺伝する気がしてるから、私は自分の子は産む気がない。離婚するだろうしw 育てるのとは別にして、あたらしく産みたくはないなと思っているきらいがある。

でもあえて「育てるのとは別に」と先述したのは、いま生まれてしまった命に対しては愛情を込めたい気持ちが多少なりともあるから。せっかく生まれてきたのなら少しでも幸せが多い方が良い。子どもの為になることには、職業としてではなくても関わっていきたい気持ちがある。親に会う為に生まれてくるとか、使命があって生まれてくるという考え方は、それこそ"死ぬほど"嫌いだ。子どもに限らないが虐待や自死のニュースが後を絶たないこの国で、自分で言う分には勝手だけど、他人にそれを言ってる人とは距離を置いて暮らしていきたい。

結婚も子育てもせずに好き勝手生きてる(ように見えているであろう)人生は、恋としても愛としても、つまり人間として不完全なのかもしれない。それでもやっぱりすぐ死ねないから、歪なりにも活かせたらと願う。生まれてしまった私の命が、まだ何かの役に立つ限り。

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