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感情の確認で存在の確認し、人間の確認をする人の欲求。感情と価値観の関係。

感情という機能。人間が集団生活を始めて社会性が必要となったとある時にこの機能は出来た思う。人類がここまで進化したのは、生き残ったのには、この「感情」という機能がとても大きい。

感情というツールでコミュニケーションの相手にゴールや意図を伝えることが必要なときに使ったりする。例えば恋人に「会いたい」という行動項目を達成するために「寂しい」という感情を使う。「会いたい」という行動項目も中間ゴールでその後に「会って何かをしたい」という目的がある。その目的の真の目的には恋人とコミュニケーションを成功させて自分の存在を証明したい、という流れだったりする。会って色々話して共感したいのか、ディズニーランドで一緒に楽しみたいとか、イチャイチャしたりセックスしたりと言葉の要らないコミュニケーションの成立で互いの必要性で存在を証明出来たりする。

または会社の後輩に「怒る」。何故怒るのか。例えば後輩がミスをしたということにしよう。上司は後輩にミスして欲しくなかったから怒った。何故ミスして欲しくなかったか、ここに目的がある。例えば怒ることによって上司という立場を証明したかったりする。または彼がミスしなかった場合、大きな商談が成立していた。その成功により上司はそのまた上司に褒められるとする。そのコミュニケーションに自分の存在の証明を獲得できる。

という喜怒哀楽だけでなく、もっと分化した感情を表す言葉もある。いろいろな感情を人間は巧みに作り出すことが出来る。その使い方は人それぞれ。

恋人は寂しいから会いたいのではない。会いたいから寂しいという感情を使う。上司は怒りたいから二度とミスするなと言ったのではない。二度とミスして欲しくないから怒ったのだ。

何故寂しいのか。怒るのか、の根本の本質を掘り下げるとすると、コミュニケーションについてネガティブな想像をしている場合が多い。相手にも自分にも。

感情は吐き出すものではない。吐き出すことがゴールではない。感情を溜めている人が多い昨今、感情を溜めている人は吐き出すだけがゴールになっていたりする。そこに人間らしさを感じていたりする。自分自身を客観していない。そして実に利己的な主観の持ち主だ。そして自分の感情をツールとして理解している人を「感情をコントロールしている人」として冷たい人のように表現する。

そして同じ感情を吐き出す人間達を同じ「価値観」の持ち主として同志として傷を舐めあうような関係を作り出す。

そんな時に下記のリンクを思い出した。

こんな体験も実際にあったりする人もいると思う。(どちら側の立場かで)どんなコミュニケーションの成功を描いていたんだろうか考えてみる。

反省の機会を欲しい「怒られたい人」は、反省して自分に修正をかけたいと思っているようだが、感情の吐き出されたことによる存在の確認をしたいだけの人である場合が多い。それを機会に自身で反省を促し、自分修正をかけたいようだが、大概こういう人は変わらない。

「怒られたい人」は、怒られたいだけでなく気にかけられたい、興味を持って欲しいので相手に怒られたり気にかけられる事象や感情を出す。それによって怒られたり気にかけられたりと感情の確認することにより自分の存在の確認している。そこまでが欲求なのだ。なのでそういう人と何回も対峙している僕は怒らないし気にもかけない。
怒る人は、「怒る」という感情を使う。そして目的を持っていてそれが伝わる人にしか怒らないだろう。

傷の舐めあい関係と信頼関係は一緒ではない。

怒られたい人は「相手に怒りを見せない形でなんとかする」ということをしてる人を求めていない。そしてなんとかされてもなんともならないし解決もしない。

気にかけられたい人はそれに優しさを感じるかもだけど怒られたい人はそういう優しさは要らないのである。

または怒らない側は「怒ってもしゃあない」という見極めがある。

「相手に怒りを見せない形でなんとかする」方法をしてみても「あーやっぱ違ったか」となる経験も持っている。

レスポンスが欲しいだけの人がレスポンスがないのと一緒。そういう人を冷たいとか「強い人」だと判断する「怒られたい人」である。

ここでひとつ大切なものがある。それは価値観。

上の2種類の人間の違いを「価値観が違う」と括ってしまう。

大きな出会いや新しい自己の発見によって昨日までの価値観と今この瞬間からの違いが生まれる。感情と思考は新しく開かれる事がある。「価値観が違うから」互いを離してしまうことをしないのが僕の仕事でもある。プライベートもそうである。この可能性を僕はいろんな人で見てきているのであって決して仕事だからではない。ただ相手から「価値観が違うわ。」と言われて離れるようであれば自ら追いかけはしない。

共感というものがある。同じ感情を持つヒトと感情をシェアするということ。何かの対象に対して同じ価値観を持つヒトと話をする時に良く生まれる現象だと思う。また「共感」というものは、喜びや嬉しさだと思う。

ヒトと繋がっている、というのはそういうことだと思う。

つながる、というコミュニケーションの成功を意味するからだ。

僕もヒトとコミュニケーションする時、このヒトは今どんな感情なのか、とどんな価値観なのかを考える。相手へのヒアリングや自分の経験や読みも使う。これまで営業部や営業会社のマネジメントの仕事でもプライベートでコミュニケーションで僕は大半を学んできた。これまでも多く色んなパターンの人に出会ってきたけど、どんな価値観の人間なのか、をベースにして人間を括ってしまうヒトは多いのと自分もそうだった。感情と価値観の関係ってなんだろうか。

どうやって学んだか、それは自己の客観視を持つ事で主観と客観の視点バランスを持つことだった。僕はこれを「超客観」しよう、と心かけて超客観してきた。コミュニケーションの相手を考える上で自分はどうすれば?を考える。その時にどんな自分で対応するか、今までの自分はどうだったか、これからの自分はどういるべきかを問う。人間は嫌でも主観になる。主観になることが悪いのでなく、バランスを整えることが大切だ。僕の場合は超客観しないと主観とのバランスが取れなかった。でもこれが良かった。「俺はこうだ」的な自分だけの超主観してきたからこそ超客観することが必要になった。エッジある自分だけの価値観を深めたからこそ超客観する時に「自分」というものを分人し、相手の心も深く見ることが出来た。今はあらゆるものを相対化させて今はこれを「超相対化」と呼んでいる。

僕の超主観は若気の至りで作られた。「あいつは認めねー。」くらいでスポーツもそうだし、ダンスでもそうだった。ストリートカルチャー。

自分を超客観すると沢山の自分がいた。それらを相対化させて全てを主観と客観してみる。全部の自分が本当の自分で自分の中にネットワークを持つ。超主観な価値観の自分が嫌いになったこともあった。それもまた自己の超客観で解決できた。

IT業界でエンジニアをやっていた自作PCも作るアニメ好きの自分、マネジメントの仕事をする自分、事業企画、クリエイティブの仕事する自分、DJする自分、踊る自分など色々いたし、それぞれに会社やコミュニティがあったが、それらの自分を全て繋げたら面白いことになるんじゃないか、と思った。

思考や感情パターンは価値観が変わる瞬間に変わる。

そんな中で上記の「怒らない人=優しい人」リンクを見てふむふむふむといろいろ書きたくなったわけです。

平野さんの本はそれを書いたものでアドラーよりも自己の客観を説く。僕は面白かった。

感情というのは、対象となる相手がいてこそあるもの。

対象となる相手が必要だと感じるヒトこそ持つものだと思う。

その時にまず自分が自分自身にコミュニケーションしているかどうか、ここが大切だと思う。「怒られたい人」は自分自身で自分を怒れない、感情から思考、判断、そして行動が出来ない人が多い。

これは対人では解決できない。自分自身とコミュニケーションをさせないといけない。その時に価値観は大きく変わる。価値観とは自分が作り出してしまう。※結局教育で教育についてはまたいつか語る。

人からの感情の確認で存在を確認する前に自分自身で存在を確認しよう。人間を感じられるのは自分自身を自分でまず認めた時。自分の価値を固めているのも広げられるのも自分次第だ。自分を認める。感情と価値観の関係。

感情をゴールに自分を左右に振って疲労して、自分の閉じ込めるよりも優しさの価値観を共有しよう。優しさの価値観は、自己の客観を経て得る。自分に優しくなれた人と優しさを共有しよう。

言葉を直接届ける機会をいつか何処かで作れたら!